日蓮正宗の主な行事

 年中行事の意義は、総本山大石寺に伝わる深遠な仏法を正しく伝えるとともに、僧俗が親しく行事に参加することによって仏縁を深め、もって広宣流布(こうせんるふ)への前進を期するところにあります。

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時 期 行事名 備 考
毎朝 午前2時30分  丑寅勤行 総本山のみ
1月1日  元旦勤行  
1月(成人の日)  成人式  
2月(立春の前日)  節分会  
2月7日  興師会  
2月16日  宗祖誕生会  
春分の日  春季彼岸会  
4月6日・7日  御霊宝虫払大法会 総本山のみ
4月28日  立宗会  
5月1日  大行会  
7月15日/8月15日  盂蘭盆会 総本山は8月
9月12日  御難会  
9月19日  寛師会 総本山のみ
秋分の日  秋季彼岸会  
10月〜11月  宗祖御会式 国内外の末寺
11月15日  目師会  
11月20日・21日  宗祖御大会 総本山のみ

丑寅うしとら勤行ごんぎょう

 丑寅勤行とは総本山大石寺の客殿において、法主上人が毎朝丑寅の時刻(=午前2時〜4時)に行なう五座の勤行のことで、本宗ではたいへん重要な意義をもっています。
 大石寺を開創した第2祖日興上人は、第3祖日目上人への相伝書のなかにおいて
「大石寺は御堂と云ひ、墓所と云ひ、日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して、広宣流布(こうせんるふ)を待つべきなり。」(日興跡条々之事)
と遺命され、以来、歴代の法主上人はこれを固く守り、七百年来一日としておこたることなく、広宣流布を祈念し続けられています。

元旦勤行

 正月一日は一年中でもっとも意義の深い祝日として、古来いろいろな行事がおこなわれてきました。
 日蓮大聖人は
「五節供の次第を案ずるに、妙法蓮華経の五字の次第の祭りなり。正月は妙の一字のまつり」(新編334)
とおおせられ、本宗で行われるる元旦勤行は一層深い意義をこめて御祝い申し上げます。
 大聖人は、十字御書に
「正月の一日は日のはじめ、月の始め、としのはじめ、春の始め。此をもてなす人は月の西より東をさしてみつがごとく、日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく、とくもまさり人にもあいせられ候なり。」(新編1551)
とおおせられて、年の始めを大切にする功徳を説かれています。
 総本山大石寺においては、法主上人の大導師のもと、全山の僧侶が出仕し、近在の檀信徒も多数参詣して厳粛且つ荘厳に奉修され、下種三宝へのご報恩と広宣流布(こうせんるふ)大願成就を祈念し、それによって確立される世界平和と人類の幸福を願うとともに、正法信徒の一年の無事息災を念じられます。その後、法主上人から親しく新年のお言葉を賜わります。また、全国の各末寺寺院においても、これにならい、所属の信徒が参詣して元旦勤行を行なっています。

興師会こうしえ(第二祖日興上人御報恩法要)

 日興上人のご命日である2月7日に行われる法要で、総本山はもちろんのこと、末寺においても厳粛に執り行なわれます。これは日蓮大聖人から仏法の正義を受け継がれ、後世にまで正しく法燈を伝えて下さった日興上人に対し奉り、僧俗一同、心からご報恩申し上げるために奉修されます。
 日興上人は、弘安5年(1282年)9月に大聖人から一切の仏法を付嘱(相伝)され、10月13日には身延山久遠寺の別当職(住職)としての付嘱も受けられました。
 大聖人滅後、関東方面の五老僧達(大聖人の6大弟子のうち日興上人を除く5人)は国家の権勢を恐れて軟化し、もろもろの師敵対謗法をおかして、次第に大聖人の正義を失ないましたが、日興上人はいささかも教義を曲げることなく、正義を守り抜かれました。
 また身延の地頭・波木井実長(はきりさねなが)が仏法に違背する行為を重ねたため、日興上人は正応2年(1289年)の春、本門戒壇(ほんもんかいだん)の大御本尊(だいごほんぞん)をはじめとする一切の重宝をお持ちして、門弟とともに身延を離れ、翌正応3年10月、南条時光殿の寄進により、富士上野の地に大石寺(たいせきじ)を建立されました。
 総本山では、2月7日は勿論のこと、毎月7日にも御影堂(みえいどう)において法主上人ご出仕のもと、日興上人のご報恩法要が行われています。

宗祖御誕生会おたんじょうえ

 宗祖誕生会は、御本仏日蓮大聖人の末法ご出現をお祝いし御報恩申し上げるために、ご誕生の2月16日に奉修される行事です。
 末法という時代に、日蓮大聖人がご出現になり衆生を救済されるということを、インドの釈尊(お釈迦様)が法華経に予言されておりました。
 釈尊の滅後一千年を正法(しょうぼう)時代、次の一千年を像法(ぞうぼう)時代、その後を末法(まっぽう)時代といいます。そのうち前の正像二千年間は釈尊の教えによって利益を得ることができますが、末法の時代に入ると、仏法が隠没して闘諍や言訟が盛んになり、人心が荒廃して濁悪の時代となってしまい、もはや釈尊の仏法では救われなくなると説かれているのです。この時にあたって、日蓮大聖人が末法の一切衆生を救済する御本仏として日本にご誕生になったのです。
 貞応元年(1222年)2月16日、貫名次郎重忠を父とし、梅菊女を母として安房の国(千葉県)長狭郡東条郷片海(千葉県鴨川市)で大聖人はご誕生あそばされました。釈尊の入滅が2月15日であるのに対し、大聖人が2月16日に誕生されていることは、釈尊の仏法が滅する時に、まさに御本仏が出現されるという、まことに不可思議な因縁を示すものといえましょう。また大聖人のご出生については種々の不思議な瑞相が伝えられています。
 総本山では法主上人ご出仕のもと、御影堂(みえいどう)においてご報恩の読経の後、五重塔の「お塔開き」がおこなわれ、読経・唱題してお誕生会を奉祝いたします。
 このお塔開きは、大聖人の末法ご出現をあらわすもので、大石寺の五重塔が西の方を向いているのは、大聖人の仏法が中国・インドを経て世界に広宣流布(こうせんるふ)するようすを、太陽が東から昇って西を照らし、全世界に光明をおよぼすことになぞらえているからです。

彼岸会[春季・秋季]

 太陽が真東から上がり真西に沈む日、すなわち昼と夜の長さが同じ春分と秋分の日を中日として、前後7日間に修する法要を彼岸会といいます。ですから彼岸会は春と秋の2回あります。
 彼岸会はわが国の仏教一般に広くおこなわれている行事の1つで、インドや中国でおこなわれた様子はありませんが、日本では古くは聖徳太子の頃からおこなわれていたようであり、日本独特の風習といえます。その内容は時代によって移り変りがありましたが、現在では世間一般に先祖の供養をすることが主になっており、その現われとしてお寺へ参詣して塔婆供養をしたり、お墓参りをする事が通例となっています。
 彼岸の本来の意義は、生きている私達自身が即身成仏して幸福な境界を切り開くことにあります。その功徳をもって先祖の追善供養をするとき、過去の精霊は私達とともに成仏するのです。本宗ではその境地を常にたもつという意味から、常盆・常彼岸という精神をもって日々に仏道を修行し、先祖の供養をしますから、他宗でいう彼岸とはまったくその趣きを異にしています。つまり毎日の信心修行がすでに彼岸の修行なのです。
 本宗において、とりわけ春秋の両彼岸会を修するのは、まずこれが積功累徳(功徳をつみかさねていくこと)という仏法の精神より起った行事であるからです。
 また、この彼岸会は本宗における衆生教化の一つの方法として、世間一般化した彼岸会を、正しい御本尊のもとで奉修される行事として転換引入し、さらに御本尊への結縁を深めていくという意味から、大切な行事としておこなわれています。

御霊宝ごれいほう虫払むしばらい大法会だいほうえ

 毎年4月6日・7日の両日、総本山でおこなわれる御霊宝虫払大法会は、秋の御大会(ごたいえ)とともに日蓮正宗の2大法要の1つです。宗祖日蓮大聖人の時代から700年にわたる長い間、本宗に伝えられてきたたくさんの重要な宝物を後世に永く伝えていくため、年に一度湿気を払い、害虫を除くなど保存に必要な手入れをし、あわせて多くの参詣者に披露して信行倍増に資する大事な儀式です。
 大聖人がご入滅されたのち、本弟子6人のうち、日昭・日朗などの5人は、「大聖人が仮名文字で書かれた手紙は、御供養の返礼として愚痴の者を導くためのものであり、これを残しておくことは、大聖人の恥を後世に残すようなものだ」と言って、すき返したり、焼いてしまいました。これは、「大聖人は末法の一切衆生を救う仏様である。したがって大聖人のおおせられたお言葉、書きのこされた文字は仏様のご金言であり、尊いお経である」という大事なことを、血脈相承のない五老達にはよくわからなかったためといえます。
 正嫡である第2祖日興上人は、その心得違いをさとすかたわら、つとめてあちこちに散在していた御書を集めて、重要な御書の目録を作り解説を書き残されました。また、みずから筆をとって御書を書き写すなど、大聖人の尊い教えがなくなってしまうことを防がれたのです。
 こうした日興上人のご精神を受け継いで、代々の歴代上人がこれらの重宝を身をもって守り伝えてきたのです。

立宗会りっしゅうえ

 立宗会とは、末法の御本仏日蓮大聖人が、宗旨を建立し、立宗を宣言あそばされた日を記念してご報恩申し上げる法要です。
 大聖人は御出家の後、鎌倉、比叡、三井、高野、南都六宗を遊学して一切の宗旨を研鑽し、経教の根源を究めて諸宗の誑惑と災難の本源を検索されました。そして南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)という本法こそ、仏法の内証に導く唯一最高の教えであるとの自覚もって、建長5年(1253年)春、御年32才の時、故郷の安房へと帰られ、師の道善房のもとで宗旨建立のための深い思索を重ねられました。
 3月28日、師の道善房の持仏堂において、師や父母、兄弟、浄円房をはじめとする法兄など順縁の人々に対し、妙法の正義をもって禅・念仏などの邪義を破折され、法界に内証の題目を開闡されました。
 さらに大聖人は思惟を続けられ、1ヵ月後の4月28日未明、法華経に予証された三類の強敵に立ち向かうべき一大決意のもと、ひとり清澄山上旭ヵ森に立ち、遠く太平洋の彼方にさし昇る日の出を待たれました。やがて水平線上にその姿があらわれると、起立合掌されていた大聖人の口から「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と、末法万年の闇を照す下種の題目が、おごそかに熱誠をこめて力強く唱え始められたのです。そして太陽をはじめとする全宇宙の生命に、一切衆生救済を始む宣言をなされました。この題目こそ今まで誰人も唱え出すことのなかった自行化他にわたる題目であり、外用弘通の開示であったのです。
 この日の午の刻(正午)、日蓮大聖人は清澄寺諸仏坊の持仏堂において、初めて大衆に向かって妙法弘教の法輪を転ぜられ、広宣流布への第一歩をしるされました。大聖人のこの説法を聞くや、安房東条郷の地頭で、熱心な念仏の信者であった東条左衛門尉景信は、烈火のごとくに怒り狂い、大聖人の身に危害を加えんとしました。以来、大聖人は大難小難数知れざる折伏弘教の生涯に身を投ぜられ、三障四魔必ず競ひ起こると予証された法華経を身命を賭して身読あそばされたのです。
 大聖人の立宗の御文に3月、4月の両度のお示しがあるのはこの内証・外用の両意によります。

大行会だいぎょうえ(南条時光追善法要)

 5月1日に奉修される大行会は、総本山大石寺の開基檀那である大行尊霊(だいぎょうそんれい)・俗名南条七郎次郎時光(なんじょうしちろうじろうときみつ)殿の追善の法要です。
 南条時光殿は、2祖日興上人が、身延の地頭波木井実長(はきりさねなが)の謗法によって身延を離山された時、自邸の下屋敷にお迎えしました。大聖人ご入滅後7年目のことです。
 さらに将来本門の戒壇建立にふさわしい景勝の地、富士山麓の大石ヵ原を御供養して日興上人とともに総本山大石寺の基礎を築き、生涯を正法護持発展のために尽くされた信徒の模範とすべき方でありました。
 時光殿は晩年、入道して大行(だいぎょう)と名のりましたので、この追善法要を「大行会(だいぎょうえ)」と称しています。

盂蘭盆会うらぼんえ

 毎年7月15日または8月15日(旧盆)に、先祖の供養をおこなう仏教行事を「お盆」、詳しくは「盂蘭盆(うらぼん)」といいます。この盂蘭盆会が、日本でおこなわれるようになったのは、仏教が伝わって約百年後の、第37代の斎明天皇の時代であると伝えられていますが、その根本は、仏説盂蘭盆経によっています。
 「盂蘭盆」とは、古代インド語の音写で「倒懸」と訳されます。それは餓鬼道の飢えや渇きの苦しみが、あたかも、さかさに吊るされた苦しみに似ているところから、このようにいわれました。また盂蘭盆経には、地獄に堕ちて苦しんでいる者を救うために、百味の飲食を盆に盛って供養したと説かれているところから、その器から「盆」というようになりました。いずれにしても「お盆」は過去精霊の苦しみを取り除いて成仏へと導く法要です。
 本宗においては常盆・常彼岸といわれ、毎日がお盆であり、お彼岸であると心得て、先祖の供養を怠りなくしていくことはいうまでもありませんが、「盂蘭盆会」という特別な日を設けることも、決して意味のないことではありません。
 つまり先祖の供養と同時に、おのおのの信心に新らたな心構えをもたせ、また、間違った教えで盂蘭盆会をおこなっている人々に、本当のお盆を教えて、成仏に対する認識をあらためさせるのです。さらに御本尊への結縁を深めていくという意味からも、大事な行事といえましょう。
 しかも草木成仏(そうもくじょうぶつ)の深い原理にもとづき、塔婆を立てて先祖の菩提を弔らいますから、各精霊は塔婆に書写された妙法蓮華経の功徳をうけて、霊山浄土に安住することができます。
 生者・死者の生命を救う御本尊のもとに、まず自分自身が成仏の境界を得ることが肝要であり、その功徳を先祖に回向することこそ、真実の盂蘭盆会といえるのです。

宗祖御難会ごなんえ

 宗祖御難会は文永8年9月12日、宗祖日蓮大聖人の竜口(たつのくち)の法難にて発迹顕本されたことに対してご報恩申し上げる法要です。
 大聖人のご一生は、
「日蓮ほどあまねく人にあだまれたる者候はず」(新編739)
とおおせられるように、「大難四ヵ度、小難数知れず」といわれ、竜樹(りゅうじゅ)・天親(てんじん)・天台(てんだい)・伝教(でんぎょう)等の仏教の大弘通者も肩を並べることができない大法難の連続でした。中でも9月12日の竜口の法難は四ヵ度の大難中、とくに仏法上、重大な意義をもつ法難です。
 そもそも、この竜口法難は、第1に大聖人の邪宗折伏、第2に北条氏の大聖人に対する忌諱、第3に幕府への直諌(直接会っていさめること)が原因ですが、ことにこの幕府への直諌が直接の原因となって起きました。
 この前代未聞の極刑に処せられようとした頸(くび)の座を契機として、大聖人のおん身の上に一大変化が起きたのです。
 大聖人は文永8年9月12日夜半、鎌倉をお出になり、丑の刻に竜口において頸をはねられようとしました。しかし、不思議な光り物が江の島の彼方から北西の方角に飛来し、太刀取りの眼がくらみ、ついに頸を切ることができませんでした。
 この子丑の時というのは仏法上深い意義をもっています。子丑は陰の終り・死の終り、寅は陽の始め・生の始めを意味しますが、釈尊を初めとする多くの仏様もこの丑寅の時刻に成道(仏様となること)したのです。すなわち、文永8年9月12日の子丑の刻は、大聖人の凡身としての死の終りであり、寅の刻は大聖人の御本仏としての生の始まりなのです。この時大聖人は、凡夫のお立場から末法の御本仏としての真実の姿を顕わされたのです。
 そこで、毎年9月12日に御難会法要をおこない、大聖人に対し仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)申し上げると同時に、未曾有の迫害とそのご苦労を偲び奉り、広宣流布(こうせんるふ)を誓うところに御難会法要の意義があります。

目師会もくしえ(第三祖日目上人御報恩法要)

 第3祖日目上人(にちもくしょうにん)は、問答が大変上手なお方でした。また大聖人や第2祖日興上人に代って天皇や将軍に国家諌暁(こっかかんぎょう)の申状(もうしじょう)を奏上すること、実に42度にも及ぶと伝えられます。大聖人のおそばで常にお給仕に励んだお姿は、末代の僧俗すべての鏡として長く門葉の讃仰するところです。
 そのご高徳を拝する末弟信徒は、報恩の誠を尽すため、祥月命日の11月15日に日目上人御正当会を奉修します。これが目師会という行事です。
 日目上人は、身延山において日興上人には無論のこと、大師匠の日蓮大聖人にもご入滅の日まで常随給仕し、大聖人から甚深の法義を授けられました。
 弘安5年10月、大聖人がご入滅された後も、常に2祖日興上人に仕え、日興上人が正応2年(1289年)謗法の山となった身延山を離れ、富士上野に移られるに当っては、その片腕として大いに日興上人を助けました。
 日目上人がなされた公家、武家への数々の国諌は、大聖人、日興上人の志を奉じ、じつに勇猛果敢にして、その生涯をかけての闘いでした。
 この日目上人の身命をなげうって広宣流布(こうせんるふ)に努められたご精神は、永遠に受け継いでいかねばなりません。本宗においては、法のため、国のため、一切衆生救済のため老体をもかえりみないこの不惜身命の尊い行体を鑑とし、ご報恩の法要を真心をもって奉修しているのです。
 総本山では11月15日は勿論のこと、毎月15日にも御影堂(みえいどう)において法主上人ご出仕のもと、日目上人ご報恩の法要がおこなわれています。

宗祖御大会ごたいえ

 宗祖御大会(御会式・おえしき)とは宗祖日蓮大聖人が弘安5年(1282年)10月13日ご入滅され、滅不滅・三世常住のお姿を示されたことをお祝いする儀式で、春の御霊宝虫払大法会とともに総本山の二大法要の一つです。
 会式(えしき)という語はもともと宮中でおこなわれた諸法要のことで、この名称をとって各宗内の法要にあてたものといわれています。その中でも10月13日はことに重要な法要なので総本山では古来から御大会(ごたいえ)と称しています。
 この御大会(御会式)は、総本山をはじめ全国の末寺でも執りおこなわれます。ともにこの日は桜の花を作って仏前を荘厳します。
 総本山での御大会は現在11月20日御逮夜(おたいや)、21日御正当(ごしょうとう)の二日にわたっておこなわれます。このわけは、弘安5年の太陰暦の10月13日は、同年の太陽暦では11月21日に当るからです。
 大聖人は弘安5年10月13日、武州(東京)池上の右衛門大夫宗仲の館において大勢の弟子や信徒が読経・唱題申し上げる中、安祥としてご入滅あそばされました。日興上人の御遷化記録等によると、ご入滅は辰の時とあるので今の午前8時頃になりますが、この時は大地が震動し、10月だというのに庭の桜に時ならぬ花が咲いたと記されています。
 実に末法の御本仏のご入滅を、宇宙法界の生命が挙げてこれを惜むと同時に、滅不滅の仏法をお祝い申し上げたさまをほうふつとして偲ぶことができます。
 一般に他派における御会式(おえしき)といえば大聖人のご命日の法要のことと考えていますが、大聖人を末法の御本仏と仰ぐ本宗においてはそのご入滅は非滅の滅であり、真実には大聖人の永遠不滅の御本仏としてのご境界を拝するお喜びの儀式なのです。
 なお、全国の末寺における御会式は、毎年10月〜11月にかけて日にちを定めて奉修しております。