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1 宗教に正教と邪教があることがわからない

  なぜ人は信仰し、宗教を求めるのかと問う時、ある人は神仏に守ってほしい、ある人は願いを叶えてほしいといい、またある人は先祖の冥福を祈りたいなどとさまざまな答えがかえってくると思います。
  現在日本だけでも何十万という数の宗教がありますが、そのなかには、合格祈願のための神社をはじめ、水子供養専門の寺院とか、虫封じの神社があるかと思えば“とげ抜き地蔵”なるものまで、多種多様の宗教があります。
  また信仰する対象も、同じキリスト教でも十字架を拝むものや聖書・マリア像・キリスト像を拝むものなどさまざまですし、仏教でも釈尊像を拝むものや、大日如来(だいにちにょらい)、阿弥陀如来(あみだにょらい)、薬師如来(やくしにょらい)などの仏や、観音、弥勒などの菩薩、あるいは大黒天、弁財天などの天界の神を祭るものなど、宗派によって多岐に分かれています。
  もし宗教が単に気休めや精神修養のための手段ならば、それはちょうど音楽の好きな人が名曲を聞き、読書家が名作を読んで心をなごませることと同じでしょう。またそれならば、どの宗教によって、どのようなものを拝んでも、その人その人の好みによればよいということになるかもしれません。
  でも少し考えてみて下さい。私たちが生活する上で、無関係なものや無縁のものからは生活に直接影響を受けませんが、身近なものや、信用したものは、その善悪、真偽、正邪によって大きな影響を受けることになり、それが人生の指針にかかわるものや、人命に関するものであればなおさら大きな力として影響を受けることになります。
  たとえば、進学や就職、結婚などは誰でも慎重に選択するでしょうし、日常生活でも乗物や食べ物あるいは医薬品などは、より信用できるものを選ぶものです。その選択の基準として、自分の経験や、道理の適否・実験の結果 ・保証の有無・他者の評価などを考慮したうえで、できる限り、よい価値を生ずるもの、すなわち満足できるものを選ぶのではないでしょうか。
  これと同じように、宗教もそれぞれ本尊が異なり、教義もさまざまですが、日蓮大聖人は、
  「小乗経・大乗経並びに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂(いわゆる)病は重し薬はあさし。其の時上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし」(高橋入道殿御返事・新編八八七)
と仰せのように、三毒強盛の末法の衆生には、真実の教えである妙法蓮華経の大良薬を与えるべきことを教示されています。
  釈尊も法華経において、
  「唯一乗の法のみ有り、二無く亦三無し」(方便品第二・開結一一〇)
と説かれ、仏になる道はただ法華経以外にないことを明かされています。
  いいかえると、この経文は一乗の法すなわち法華経以外の教えは、真実の教法ではないとの意味です。  このように、宗教には正邪の区別があることを知らなければなりません。


2 宗教を判定する場合の基準には、どのようなものがあるのか

  正しい宗教の条件としては、まず人間の世界を離れた架空の世界を基盤とした宗教ではなく、人間のための宗教であり、人間がよりよく、幸せに生きるための宗教であることが大事です。そのためには、正しい生命観に基づき、正しい道理を備え、全人類を救済する現実の力をもった宗教であることが大切です。
  ではどのような方法で宗教を判定したらよいのでしょう。
  日蓮大聖人は、次のような基準をもって宗教の正邪を判定することを教えられています。  
1 三証(さんしょう)  文証、理証、現証のことをいいます。
  文証とは、経論などによる証拠であり、教えが独断ではなく、仏の説いたお経によっても裏付けられるかどうかを確かめることです。
  理証とは、教えが因果の道理にかなっているかどうかを確かめることです。
  現証とは、その教えがたんに理論のみの観念ではなく、現実の人間の生活の上にどのように証明されるかを確かめることです。  
2 五義 (ごぎ) 教(きょう)・機(き)・時(じ)・国(こく)・教法流布の先後(きょうほうるふのせんご)の五つを知ることをいい、宗教の五綱(ごこう)ともいいます。仏法を広めるに当たっての規範であり、この観点に基づいて正しい宗教を選択することです。「教を知る」とは、仏菩薩の説いた経律論や、あらゆる思想哲学宗教の勝劣浅深を見究めることです。「機を知る」の機とは衆生の機根であり、教えを受け入れられる状態にあるかどうかを見定めることです。「時を知る」とは、広まる教えに相応した時代であるかどうかを知ることです。「国を知る」とは、それぞれの国が、どのような教えに縁のある国かを知ることです。「教法流布の前後を知る」とは、先に広まった教えを知って、次に広まるべき教えを知るということです。
  この五義のうちの、教の勝劣浅深を判定する基準として、五重相対(ごじゅうそうたい)、五重三段(ごじゅうさんだん)、四重興廃(しじゅうこうはい)、四重浅深(しじゅうせんじん)、三重秘伝(さんじゅうひでん)などがあります。このなかのおもなものを簡単に説明しますと、
  「五重相対」とは、内外(ないげ)相対・大小(だいしょう)相対・権実(ごんじつ)相対・本迹(ほんじゃく)相対・種脱(しゅだつ)相対の五重であり、仏教以外のすべての教えと仏教との比較検討から始まり、小乗教より大乗教、権大乗教より実大乗教、法華経迹門より本門、文上脱益(もんじょうだっちゃく)より文底下種(もんていげしゅ)と、次第に高度な教えを選択していく方法です。
  「四重興廃」とは、釈尊の教えを、爾前経、法華経迹門、法華経本門、観心(かんじん)、と従浅至深(じゅうせんしじん)して勝劣興廃(しょうれつこうはい)を判じることです。
  これらの基準に基づいてさまざまの角度から判定を重ねるとき、初めて唯一の正法を選定することができるのです。


3 どの宗教が正しいのか自分でたしかめてみたい

  現在日本における宗教法人の総数は、十八万三千四七一あり、法人格を持たない宗教団体を含めると二十二万七千余もあるといわれています。(平成九年 宗教年鑑調査による)
  これほど多くの宗教を、実際に自分の目で善悪を確かめたいといってもそれは不可能なことです。
  またそのなかで仏法の教えは特に難信難解であり、体験の世界でもありますから、私たちがただ頭で宗教の正邪を理解しようとしても、十年、二十年、または一生涯を費やしてもできることではありません。結局はどの宗教が正しいのかもわからず、信仰の道に入ることもできないでしょう。
  たとえば川を渡ろうとする人が橋の手前で、この橋はいつ、誰が作ったのか、材料はなにか、今までこわれたことはないか、などと詮索し続けて、結局向う岸に行きつくことができなかったという話があるように、すべてのものごとに対して、理解し納得しなければ信用しないという人は、一日たりとも生活できなくなるでしょう。
 時には批判し、詮索することも必要ですが、元来仏教に限らず、すべて宗教は信ずることから始まります。
  法華経には、
  「信(しん)を以って入ることを得たり」(譬喩品第三・開結一七五)
とあり、日蓮大聖人は、
  「仏法の根本は信を以て源とす」(日女御前御返事・新編一三八八)
と教示されています。
  また大聖人は、
  「有解無信(うげむしん)とて法門をば解りて信心なき者は更に成仏すべからず。有信無解(うしんむげ)とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし」(新池御書・新編一四六一)
と説かれて、たとえ仏法の教義を理解できる人であっても、信ずる心のない人を救うことはできないと教示され、さらに、
  「法華本門の観心の意を以て一代聖教(いちだいしょうぎょう)を按ずるに菴羅果 (あんらか) を取って掌中に捧ぐるが如し」(十法界事・新編一七六)
と仰せられ、真実の仏法を信ずるとき、一切の宗教の浅深は、あたかもたなごころを見るように明らかになるのであると説かれています。
  正しい御本尊を信受し修行することによって、あなたの真実を求め、見きわめる力は、より正しく発揮され、人生に大きく役立ってゆくことでしょう。


4 なぜ他の宗教を捨てなければならないのか

  釈尊は、一代経の究極である法華経に、
  「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」(方便品第二・開結一二四)
と仰せられるように、今まで説いてきた方便の教えを捨てて無上の教えである法華経を最高唯一のものとして説かれました。そしてさらに、
  「余経の一偈をも受けざる有らん」(譬喩品第三・開結三一六)
と戒めています。
  末法においては御本仏日蓮大聖人が建立された南無妙法蓮華経の仏法こそ文底本因妙(もんていほんにんみょう)の法華経といって究極中の究極であり、すべての仏菩薩をはじめ全世界の民衆を根本から成仏させる無上最高の真実法なのです。
  したがって真実の一法以外はすべて方便の教えであり、これを権教ともいいます。権とは“かり”の意で、権教とは実教に対する言葉です。
  人がもし“かり”の教えを真実のものと信じこんでその通りに実行したならばどうでしょうか。月収が来月から十倍になるという仮定の話をまともに受けて浪費をしたら家計はどうなるでしょうか。権教を信ずる人は、現実と遊離した架空仮定の人生を歩むことになるのです。
  さらに日蓮大聖人は、
  「『了義経(りょうぎきょう)に依って不了義経(ふりょうぎきょう)に依らざれ』と定めて、経の中にも了義・不了義経を糾明して信受すべし」(開目抄・新編五五八)
と教えられています。了義経とは完全無欠な教えであり、不了義経とは不完全な教えの経典のことで、日蓮正宗以外の宗旨、宗派はすべて不了義経に当たります。
  どの宗教も一見もっともらしいことを説きますが、要するにうわべの言葉よりも何の経をよりどころとしているのか、教理が完全なものであるか、という点がもっとも大事なのです。一部分にありがたいことが説かれているからといっても、教理が不完全な宗教は、ちょうど外見も設備も立派であるが、エンジンが故障している飛行機のようなものです。このような飛行機に「良いところもあるのだから」といって、あなたは乗ることができるでしょうか。
  また、正しい教え以外の宗教を「覆相教」といいます。これは真実の教えを覆いかくす教えという意味で、不完全な宗教は正しい仏法を覆いかくし、迷わせる働きをするゆえにこれを除かなければならないのです。
  ここを大聖人は、
  「今の時は権教即実教の敵と成る」(如説修行抄・新編六七二)
と仰せられています。
  人々を救おうとする仏の真実の教に敵対する不完全な宗教は、人間を生命の奥深いところから迷わせ苦しめるものですから、これを悪法とも苦の因ともいうのです。
  大聖人は、
  「悪法世に弘まりて、人悪道に堕ち、国土滅すべし」(頼基陳状・新編一一二九) と説かれ、悪業による果報として、
  (1)周囲の人々から軽蔑される
  (2)みにくい姿に生まれる
  (3)粗末な衣服や食べ物しか得られない
  (4)財産を求めて努力しても得られない
  (5)貧しく下賤の家や邪な家に生まれる
  (6)不慮の災難や事故に遭う
  (7)人間としての苦しみを常に味わう
と教えられています。
  このように日蓮正宗以外の宗教は、人間を苦悩の底につき落とす悪法であり、仏の真意に背く権のものであり、人々をたぶらかす不了義経なのです。まさに薬に似た毒薬というべきでしょう。
  釈尊は、
  「但虚妄(こもう)を離るるを名づけて解脱(げだつ)と為す」(譬喩品第三・開結一七三) と説いています。真実の幸福は、虚妄(いつわり)の教えを捨てて正法に帰依することによって得られるのです。


5 なぜ日蓮正宗と他の宗教をいっしょに信仰してはいけないか

  信仰は、もっとも勝れた宗教を選び、誠実な清らかな信心を貫くことが大切です。
  たとえば一本の牛乳に、一滴の毒を混ぜたとしたら、いかに養分があるからといっても、あなたはその牛乳を飲むことはできないでしょう。
  これと同じように、正しい宗教とよこしまな宗教を混同して修行することは、せっかくの正しい信仰の功徳を消し、苦しみを受ける結果 になるのです。
  釈尊は四十余年未顕真実と説いて、最後八ヶ年の法華経を説いた後は、それ以前の経経はすべて権教(仮の教え)であるから用いてはならないことを明かされています。
  ところが真言宗、念仏宗をはじめ、すべて他の宗派は皆この四十余年の経に依っているのですから、これらの教えを法華経の真実の教えにまじえてはならないのです。
  それは良薬に毒を入れ、すべてを毒薬にしてしまうようなものだからです。
  日蓮大聖人はこのことを、
  「法華経を行ずる人の、一口は南無妙法蓮華経、一口は南無阿弥陀仏なんど申すは、飯に糞を雑へ沙石を入れたるが如し」(秋元御書・新編一四四七) といましめられています。
  大聖人の教えは、末法のすべての人々を成仏に導く唯一の大法であります。
  この大法を信じながら、他の宗教を混じえることは同じように成仏の道を閉ざすことになります。
  また大聖人が、
  「何に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄にをつべし。うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」(曽谷殿御返事・新編一〇四〇) と説かれているように、いかに正法を持っても、ほんの少しでも法に背くことがあれば、あたかも千ばいのうるしに一本の蟹の足を入れて、すべてのうるしの効用をなくしてしまうようなものであり、堕地獄のもとになるのです。
  正しい仏法は、余事を混えずに信仰しなければ、なんの功徳もありません。
  大聖人が、
  「此の南無妙法蓮華経に余事をまじへば、ゆヽしきひが事なり」(上野殿御返事・新編一二一九) と仰せのように、成仏の大利益は、日蓮正宗の仏法に余事を混じえず、清浄な心をもって信じ行ずるとき、はじめてもたらされるのです。


6 日蓮正宗では、なぜ神棚や神札をはずさせるのか

  あなたが神棚や神札をはずすことに抵抗を感じるのは、それらに神の力がこもっており、その力によって守られると考えていることによるのでしょうが、それはまったく逆なのです。
  大聖人は、
  「世皆正(しょう)に背き人悉く悪(あく)に帰す。故に善神(ぜんじん)国を捨てゝ相(あい)去り、聖人(しょうにん)所を辞して還らず。是を以て魔(ま)来たり鬼(き)来たり、災(さい)起こり難(なん)起こる」(立正安国論・新編二三四) と仰せです。
  諸天善神は、妙法が広く流布することによってそれを法味として威力を増し、民衆を守護する力をましていくのです。
  ところが、白法隠没(びゃくほうおんもつ)の末法の世の中においては、正法を信仰する者が少なく、正法に背いている者が多いために、諸天善神は法味に飢えて、社を捨てて天上にのぼってしまっているのです。
  したがって現在の神社には、悪鬼・魔神が棲みついて災難をひきおこすのです。
  ですからあなたの家の神棚にも、神札にも悪鬼が棲みついていますので、拝まなくてもそれがあることによって、あなたの生命はもちろんのこと、生活にも悪影響を及ぼし、ひいては先祖をも苦しめることになるのです。
  法華経には、
  「若し人信ぜずして此の経を毀謗(きぼう)せば則ち一切世間の仏種(ぶっしゅ)を断ぜん。(中略)其の人命終(みょうじゅう)して阿鼻獄に入らん」(譬喩品第三・新編一七五) と説かれています。
  末法においては、「此の経」とは、法華経の文底に秘沈された三大秘法の南無妙法蓮華経のことです。
  したがって日蓮正宗以外の宗派の本尊や、神社の神札などの信仰の対象ともなるものは、正法に背くものであり、人々を不幸に陥れる謗法の根源なのですから、神棚や神札は速やかに捨てることが肝要です。


7 もっとも正しい宗教とはなにか

  もっとも正しい宗教としての条件は、
  第一に教主が宇宙の真理と人間の生命の実相を完璧に悟った方であること
  第二に教義が因果の道理に基づいたもので、それが経典として誤りなく表記されていること
  第三に本尊が全人類にとって尊崇に値するものであり、現実に即したものであること
  第四に信仰修行の規範が普遍的で社会的人道的通念に反しないものであること
  第五に信仰によって得られる利益が教説に適っており、表面的一時的なものでなく本質的永続的な利益であること
などを挙げることができます。
  第一の教主の悟りについていえば、数多い宗教のなかで、宇宙の実相と人間生命を深く観達し、適確に説き尽くした教えは仏教に勝るものはありません。キリスト教の教主イエスやイスラム教のマホメットなどは神の子とか神の使徒として絶対神を説きましたが、彼らは神の啓示を受けたというだけで、過去に何を修行し、いかなる道理によって何を悟ったのかはまったく不明です。その教義内容も生命の本質に立脚したものでなく、戒律によって表面 的な言動を規制し、奇跡と空想を説いているにすぎません。
  その点仏教は教主釈尊の因行と果徳を明らかに教示し、五十年間の説法を通して宇宙の真理と人間生命の実相をあらゆる点から完璧に説き尽くしています。釈尊が成仏した根本の一法とは、久遠元初というこの世の最初の時代に、我身がそのまま大法界の真理の当体なりと悟られた自受用報身という仏様の教えであり、この久遠元初の仏様が末法に日蓮大聖人として出現されたのです。
  第二の教義の正当性と経典については、釈尊の説いた仏典は数多く現存し、その内容もすべて道理に適ったものですが、その究極が法華経です。この法華経の予言通 りに末法の御本仏として日蓮大聖人が出現され、一切衆生を救うために命におよぶ迫害のなかで南無妙法蓮華経の七文字を説きました。この南無妙法蓮華経は諸仏成道の根本原因の仏法であり、教義の面 からも、功徳の面からも釈尊の法華経より、はるかに勝れたものです。大聖人はこの大仏法を広く人々に説き示すために厖大な量 の御書を書き遺されています。
  第三の本尊については、本尊とは、“根本として尊崇すべきもの”の意味で、少なくとも人間として誰もが尊敬するに値いするものでなければなりません。世の宗教のなかには、キツネ(稲荷)、ベビ(竜神)、ワニ(金毘羅)などの畜生を拝むものや、先祖供養に名を借りて亡者の霊を本尊とするもの、仏としての悟りを得ていない菩薩や天上の神などを本尊とするものなどがありますが、これらは最上至尊の本尊ではないのです。またいかに立派な神や仏を立てても、それが架空のものであったり、空想上のものであっては、貴重な人生を托する本尊としてはきわめて頼りなく、危険なことというべきです。
  久遠元初の仏である日蓮大聖人が、
  「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(経王殿御返事・六八五) と仰せられて、御身に備わる一切の悟りと大功徳の力をそのまま図顕遊ばされた本門戒壇の大御本尊こそもっとも尊く勝れた御本尊なのです。
  第四の信仰修行についていえば、宗教のなかには修行として、山にこもったり、断食をするもの、神札や守り札を貼っておけば修行は一切必要ないというものなどさまざまです。また戒律宗教などの教えを現実生活の中で堅持しようとすると、さまざまな支障をきたしたり、非常識な行為になることもあります。日蓮正宗の信仰は教条的に現実生活上の行動を規制するものではなく、日常生活の中で日日、御本尊を信じ礼拝し唱題することが基本であり、誰でも支障なく信行に励むことができるのです。
  第五の信仰による利益については、大聖人が、
  「道理証文よりも現証にはすぎず。」(三三藏祈雨事・新編八七四) と仰せられるように、現証は宗教を判定するうえでもっとも大切なことです。
  さらに大聖人は、
  「南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天・帝釈・日月・四天等昼夜に守護すべし」(諌暁八幡抄・新編一五四三) とも、
  「南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ」(九郎太郎殿御返事・新編一二九三) とも仰せられています。すなわち、日蓮正宗の御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える人は、諸天善神に守護され、未来永劫にくずれることのない仏の境界を築くことができるのです。
  現在、日本国内のみならず全世界において、正宗信徒が飛躍的に増加し、歓喜にみちて仏道修行に邁進しています。
  日蓮正宗の仏法が世界でもっとも正しい宗教であることを、全世界の人々に理解される日もそう遠いことではないでしょう。


8 なぜ日蓮正宗だけが正しいといえるのか

  「正とは一に止まる」という言葉がありますが、正しい教法が二つも三つもあるわけがありません。これについて、釈尊は、
  「十方佛土の中には、唯一乗の法のみ有り、二無く亦三無し」(方便品第二・開結一一〇) と説き、日蓮大聖人は、
  「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし」(上野殿御返事・新編一二一九)
と仰せられています。
  日蓮正宗がもっとも正しい宗旨である理由は、法華経の予証どおりに末法に出現された御本仏日蓮大聖人の教えを、七百年間にわたって現在まで清浄に誤りなく受けついできた唯一の教団であるから、といえましょう。
  鎌倉時代に出現された日蓮大聖人は、末法万年にわたって人々を苦悩の闇から救済するために、数々の大難に遭いながら、南無妙法蓮華経を説き顕わされました。そして南無妙法蓮華経の法体として一閻浮提総与(全世界のすべての人々に与えるという意味)の大曼荼羅御本尊を図顕建立されたのです。この御本尊は日蓮大聖人の当体でもあり、久遠元初の自受用身という宇宙法界の根本真理の当体でもあります。
  大聖人は、
  「抑当世の人々何れの宗々にか本門の本尊・戒壇等を弘通せる。仏滅後二千二百二十余年に一人も候はず」(教行証御書・新編一一一〇)
と、大聖人ただ一人末法の仏として仏勅によって出現され、三大秘法の大法を広めることを明かされています。
  三大秘法とは本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇をいいますが、本門の題目とは大聖人が建立遊ばされた一閻浮提総与の大御本尊に向かって唱える題目のことであり、本門の戒壇とは、この大御本尊が安置され、しかも一切の人々が修行する場所をいいます。
  したがって三大秘法のなかには「本門の本尊」が中心であり、本門の本尊なくしては題目も戒壇も存在しないのです。このゆえに本門の本尊を「三大秘法総在の御本尊」とも尊称します。
  日蓮大聖人は入滅に先立って、門弟のなかから日興上人を選んで、本門戒壇の大御本尊をはじめとする法門のすべてを相承し付嘱されました。
  大聖人の精神と法義を固く守られた日興上人は、時あたかも地頭の不法によって謗法の地になりつつあった身延の地を去る決意を去れ、大聖人が生前より、
  「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ」(三大秘法禀承事・新編一五九五)
  「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(身延相承書・新編一〇二二)
と遺命されていたとおり、日本第一の名山富士山の麓に一切の重宝を捧持して弟子たちと共に移られ、そこに大石寺を建立されたのです。
  その後、大聖人の仏法は第三祖日目上人、第四世日道上人と、一器の水を一器に移すように代々の法主上人によって受けつがれ厳護されて、現在御当代上人に正しく伝えられているのです。この間の宗門史は、また正法厳護のための尊い苦難の歴史でもありました。
  いま私たちが総本山大石寺に参詣し、一閻浮提総与の大御本尊を拝するとき、
  「須弥山に近づく鳥は金色となるなり」(本尊供養御書・新編一〇五四)
の金言どおり、私たちの生命の奥底は仏の威光に照らされて金色に輝き、即身成仏の姿になっているのです。
  現在、国の内外を問わず、大御本尊の広大な功徳によって苦悩を希望に転じ、福徳に満ちて信心に励む多くの人々の姿が、日蓮正宗の正しさを物語っているといえましょう。


9 日蓮正宗がそんなによい宗旨なら、なぜ社会の人から広く受け入れられないのか

  質問の内容はいろいろな意味に解釈できます。具体的にいえば、
  「そんなによい宗旨なら」
  一、もっと昔から広まっていたはずだ
  二、もっと大ぜいの人が信仰するはずだ
  三、もっと学識者や著名人に受け入れられるはずだ
  四、もっと短期間に広まるはずだ
  などの意味を含んでいるように思われます。
  いま、これらの疑問に対して、まとめて説明しましょう。
  釈尊は法華経に、
  「此の法華経、最も為れ難信難解なり」(法師品第十・開結三二五)  
と説き、法華経は随自意といって衆生の機根にかかわりなく、仏が悟った法をそのまま説かれたもので、教義が深遠なために難信難解であり、さらに正法を信ずる時は必ず大難や障害が起るために難信難解なのであると仰せられています。
  とくに末法は衆生の機根も邪悪な時代であり、出現される仏も弘通される教法もより鮮明に破邪顕正を旨とするものであるから、迫害や誹謗は身命に及ぶものとなり、弘教は困難をきわめるであろうと、釈尊は予言されました。
  釈尊の予言どおり、末法の御本仏日蓮大聖人の生涯は、立正安国と衆生済度の大慈悲に貫かれ、同時にまた邪悪な大難障魔との闘いの連続でもありました。
  日蓮正宗は日蓮大聖人の教えのままに、法の正邪を峻別する折伏の宗旨であり、個個の人間に活力を与え、現実生活の向上を説く宗教であるため、封建主義の時代には、民衆を抑圧して体制維持を計る為政者から弾圧されたのです。
  したがって日蓮正宗の本格的な布教は、信教の自由・布教の自由が認められたのちといっても過言ではありません。
  折伏弘教が進むにつれて、その反動としての中傷や妨害もさまざまに起りました。なかには、せっかく日蓮正宗の話を聞いても、「日蓮正宗は新興宗教だ」「葬式の香典を全部持ち去ってしまう」「病人と貧乏人の集まりだ」などの悪質なデマに惑わされたり、世間の目を気にして入信できなかった人も多くいたのです。
  現在でも、正邪をはっきりさせることに抵抗を感じる人や、信仰するよりは遊んでいた方が楽しいという人、朝夕の勤行と聞いて尻ごみする人など、入信できない人も大ぜいいるようです。
  そのようななかで、人生を真摯に考え、先祖からの宗教を改めて日蓮正宗に帰依することは実に勇気のいることであり、至難の業なのです。それにも拘らず、日蓮正宗の信徒は、現在、日本国内のみならず全世界に広く活躍しています。
 さまざまな障害のなかで、このように発展したのは、正宗僧俗の折伏弘教の努力によることはいうまでもありませんが、何よりも日蓮正宗の仏法が正統であり、御本尊に偉大な功徳が厳然とましますからにほかなりません。
  世間には学識者や有名者、著名人といわれる人がおりますが、このなかには日蓮正宗の信仰をしている人もいれば、この宗教にまったく無知な人、世評や保身を気にして信仰できない人などさまざまです。ですから学識者や著名人が信仰するしないによって宗教の必要性や正邪を判断することはあまり意味のないことです。
  また“なぜ短期間に広まらないのか”という点ですが、日蓮大聖人の仏法に大利益があるからといって、一年や二年で願いごとがすべて叶うというわけにはいきません。
  なぜなら私たちには過去世からの種々の宿業があり、花も時がこなければ咲かないように、信仰の功徳が開花する時期は人によって異なるのです。また賢明な親は子供の欲しがる物を言いなりに買い与えないと同じように、目先の願望を叶えるだけが仏様の慈悲ではありません。いかなる時でも、正法を堅持し生命力を発揮して人生を悠々と歩む人間に転換されていくところに正法の真実の利益があるのです。したがって信仰の利益は、他人の目から見て容易に判断できるものではありません。
  しかし信仰によって御本尊の功徳を実感し、体験した人々の歓びと確信が、現在多くの人々を正法に導き、真実の幸福への人生を歩ませているのです。難信難解の正法を語り、その功徳の素晴らしさを伝えていくためには、着実な努力と時間の積み重ねが必要なことはいうまでもありません。
  あなたが、もし本当に“日蓮正宗は社会に広く受け入れられていない”と思い込んでいるならば、それは無認識による誤解であり、さもなければ偏見というべきです。
  また“もっと大ぜいの人が信仰しなければ、自分は信仰する気にならない”という意図で冒頭の質問をされるならば、それはあたかも“もう少し大ぜいの人が法律を守らなければ、自分も法律を守る気がしない”ということと同じで、良識ある大人のいうことではありません。
  他人がどうあろうと、周囲にどう評価されようと、正しい道を知ったならば、確信をもって自ら邁進する人こそ、真に勇気ある人であり、聡明な人というべきでしょう。


10 日蓮正宗の信仰をすると、どのような利益があるのか

  法華経に、
  「如来の知見は広大深遠なり」(方便品第二・開結一八九) と説かれているように、仏の知見と功徳のすべてを書き記すことはとうてい不可能なことですが、経文と御書のなかから主な教示を挙げてみましょう。  まず分別功徳品には、
  「釈尊の滅後に是の経(法華経すなわち南無妙法蓮華経)を能く行ずる者は
  (1)本尊を安置する塔寺を建立し
  (2)僧坊などの修行者の道場を建立寄進する境遇になる
  (3)正法を修行する人に対して深く敬い供養する
  (4)仏法を正しく理解して他の人に法を説くことができる
  (5)行動や言葉が正しく清らかになる
  (6)正法の善友にめぐまれる
  (7)忍耐の心が強くなり瞋りがなくなる
  (8)意志や信念が固くなり、周囲の悪法に紛動されなくなる
  (9)心が落着き、考えが深くなる
 (10)何物にも恐れず善行をたゆまず積み重ねる
  (11)多くの善い教えや知識を正しく生かすことができる
  (12)感覚が鋭利となり、頭脳は明晰に、智慧は深くなる
  (13)難問を解決する力が備わる」(開結四五九取意)
と説かれています。
  また随喜功徳品には、  
「正法を聞く功徳について、
  一、正法を説く寺院に詣で、あるいは座り、あるいは立って、是の経をわずかな間でも聴聞する功徳は、来生には最上の宝車を得て天人の宮殿に生まれる。
  二、正法を講ずるところに行き、座して聞き、他人に座を分かち与える功徳は、来生は仏法守護の統領である帝釈天の座に、また、裟婆世界(しゃばせかい)の主である大梵天の座に生まれる。あるいは人間世界の最高統治者である転輪聖王(てんりんじょうおう)の座に生まれる。
  三、他人に勧めて共に法華経を聞く功徳は、来生は聡明で智慧が深く、健康な身心と整った美しい容姿をもって生まれ、世世に仏に値い福徳を増すようになる」(開結四六八取意)
と説かれています。
  また日蓮大聖人は経王殿御返事に、
  「この御本尊を信ずる者は、
  (1)病魔や障害に犯されない
  (2)諸天善神に守護される
  (3)福徳が増して幸福になる
  (4)どんな場合でも恐れることがなくなる
  (5)自由自在の境遇になる」 (新編六八五取意)
と説き、
  当体義抄には、
  「正直な心で南無妙法蓮華経と唱える人は、
  (1)不幸の根源である悪心(煩悩)が、そのまま仏のような清浄な生命(法身)に転ずる
  (2)悪い行為(業)は、正しい判断力を備え、仏のような智慧(般若)に転ずる
  (3)苦しみや悩み悲しみは、希望にみちた自在の境界(解脱)に転ずる」(新編六九四取意)
と仰せられています。
  総本山大石寺第二十六世日寛上人(にちかんしょうにん)も、
  「この本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用(みょうゆう)あり。故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来たらざるなく、理として顕れざるなきなり」(観心本尊抄文段・歴全五-二六六)
と教えられています。
  大御本尊の功徳は、即身成仏の境界に極まるのですが、そのためには、自ら信心を奮い起こし、正しい指導のもとに修行しなければならないのです。


11 日蓮正宗の信仰には、なぜ利益があるのか

  天台大師(てんだいだいし)は、利益と功徳について、
  厳密にいえば、功徳とは自ら積むものであり、利益とは他から与えられるものという違いはあるが、仏道修行による得益の相からいえば、その意義は同一である(法華玄義巻六取意)、といわれています。
  したがって、ふつうは利益のことを功徳といってもさしつかえありません。
  妙楽大師(みょうらくだいし)の弘決には、
  「仮使(たとい)発心真実ならざる者も正境(しょうきょう)に縁すれば功徳猶多し」
といわれるように、日蓮大聖人が顕わされた一閻浮提総与の大御本尊には、仏様が一切衆生を救う仏力と、あらゆる災いを除いて人々を幸福に導く法力が厳然と納められておりますので、これに縁する者は大きな功徳を積むことができるのです。
  御本尊を拝しますと左の御かたに「有供養者福過十号(うくようしゃふくかじゅうごう)」としたためられています。
  十号とは、仏様の尊称で、如来・応供(おうぐ)・正偏知(しょうへんち)・明行足(みょうぎょうそく)・善逝(ぜんぜい)・世間解(せけんげ)・無上士(むじょうし)・調御丈夫(ちょうごじょうぶ)・天人師(てんにんし)・仏世尊(ぶっせそん)のことですが、これについて大聖人は、
  「末代の法華経の行者を讃め供養せん功徳は、彼の三業相応の信心にて、一劫が間生身の仏を供養し奉るには、百千万億倍すぐべしと説き給ひて候。これを妙楽大師は福過十号とは書かれて候なり」(法蓮抄・新編八一三)
と仰せられ、法華経の行者日蓮大聖人の当体である御本尊を信仰し供養する者の功徳は、仏典に説き示されている生身の仏を長い間供養するよりも百千万億倍勝れ、その無量 の智慧と福徳は仏の十号にもまさると説かれています。
  したがって仏力・法力の功徳は、他から安易に与えられるものではなく、御本尊に対する信力・行力を磨くことによって、はじめて積むことができるのです。
  ふつう“ご利益”というと、お金が儲かったり、病気が治ったり、願いごとが叶うなどの目前の現証だけを考えがちです。このような今世の利益も大事ではありますが、仏様はすべての生命は今世だけのものではなく、過去・現在・未来の三世にわたって永遠不滅なるがゆえに過去世の罪障を消滅し、今世のみならず未来永劫にわたって清浄な幸福境界を確立することが真実の利益であると教えられています。
  日蓮大聖人は功徳について、
  「功徳とは六根清浄の果報なり。(中略)悪を滅するを功と云ひ、善を生ずるを徳と云ふなり。功徳とは即身成仏なり」(御義口伝・新編一七七五)
と仰せです。六根とは、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の生命の識別作用の器官をいい、それが清浄になるとは、六根に備わる煩悩のけがれが払い落とされて清らかになり、ものごとを正しく判断できる英知が生まれることなのです。
  したがって正しい御本尊を信ずるとき、煩悩はそのまま仏果を証得する智慧となり、生命に内在する仏性はいきいきと発動し、迷いの人生は希望に満ちた楽しい人生に転換されていくのです。
  これを即身成仏の境界というのです。
  正しい信仰を知らない人は、この六根が無明の煩悩におおわれて、人生に対する判断に迷い、とりかえしのつかない過ちを犯すことが多いのです。
  このように日蓮正宗の信仰は、人間の生命を根本から浄化し、英知と福徳を備えた幸福な人生を築くものですが、その利益は個人の人間に止まるものではありません。
  大聖人は依正不二という法門を説かれています。依とは、私たちが生活するこの国土をいい、正とは、私たち人間のことです。この法門は、人間の思想や行動がそのまま非情の国土世界に反映するという“不二”の関係にあることを明かしたものであり、国土の災害や戦乱・飢餓を根本的に解決し、悠久の平和社会を実現するためには、正報である人間が清浄な福徳に満ちた生命に転換しなければならないことを示したものです。
  私たちが三世にわたって即身成仏の境涯を築き、しかも国土を平和社会に変える方途は、日蓮正宗総本山大石寺に厳護される本門戒壇の大御本尊を純真に拝し、弘宣していく以外にはないのです。