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1 いまさら改宗するのはめんどうだ

  「めんどうくさい」といって、怠惰をきめこみ「世間体が悪い」などと、求道の前に、すでにしり込みしてしまうような生き方をしていては、家庭にあっても、職場にあっても、真の職責と使命を果 すことはできません。
  つまるところ、人生の目的は幸福でありますから、その目的に向って、ひとつひとつ障害となるものを取り除いて前進していくべきです。積雪の中を走る汽車の前進をはばむ雪は払わねばなりません。雪かきがめんどうだといっていては汽車は前に進みません。
  日蓮大聖人は、
  「汝(なんじ)早く信仰の寸心(すんしん)を改めて速やかに実乗(じつじょう)の一善(いちぜん)に帰せよ」(立正安国論・新編二五〇)
と仰せられています。また正しい信仰に対する小さな発心(ほっしん)、ほんのわずかな精進が、あとに大きな力となってあらわれてくることを、
  「小事(しょうじ)つもりて大事となる」(衆生心身御書・新編一二一六)
とも教えられています。
  「親兄弟がなにか言いやしないか」・「親戚の人が反対しないか」・「上司や友人が軽蔑しないか」・「先祖からの墓地があるので改宗しにくい」などと、取り越し苦労するよりも、今日の小さな発心が、やがて大きな喜びとなり、功徳となって返ってくることを確信してください。その喜びと確信をもって、かえって反対しているそれらの人々をも、正法に導くことができるのです。
  まして、今日の民主主義の社会においては、封建時代のように、改宗によって命に及ぶほどの迫害があろうはずもありません。まったくみずからの意志において、正しい信仰に帰依し、実践することができる時代です。信仰の自由を謳歌できる現代は、もう周囲のしがらみや、世間体をはばかって過去からの宗教にとらわれているときではありません。「よき人材となろう」・「幸福になろう」という発心の心とともに、敢然として邪義を捨てて、正法を実践することがなによりも大切です。
  大聖人は、
  「かなしきかな今度此の経を信ぜざる人々。抑(そもそも)人界(にんがい)に生(しょう)を受くるもの誰か無常を免れん。さあらんに取っては何ぞ後世(ごせ)のつとめをいたさゞらんや」(新池御書・新編一四五六)
と仰せられ、せっかく人間に生まれたからには正しい信仰をもって将来の幸福を築くべきであると教えています。
  いたずらに無為(むい)な時間を過ごすことなく意を決し、勇気をもって正法につくことこそが、今、あなたのとるべき道であるといいたいのです。


2 信仰をすると周囲から奇異な目で見られるのではないか

  人は皆生き方が違いますし、宗教に対する認識もそれぞれ異なります。なかには宗教の必要性をまったく認めない人もいれば、宗教をアヘンのように思っている人、宗教を低級なものと思っている人などさまざまです。
  今あなたは信仰の必要性を認識したものの、もし日蓮正宗の信仰をすれば、このような人々から奇異な目で見られはしないかと心配しているのでしょう。
  しかし周囲の目といっても、宗教の正邪をわきまえない人々の宗教観は当を得たものではなく、無責任きわまりないものです。もしあなたがこれらの人々の言うことに従ったとしても、これらの人々があなたに対して幸せになる道を教えてくれるわけではありません。
  欧米では「あなたはなにを信仰していますか」と聞かれた時に、「私は信仰を持っていません」と答えると、かえって周囲からなんの信念も、指針ももっていない人だと軽蔑され、奇異な目で見られるそうです。
  また現代は宗教の時代といわれ、世間でも人生を充実させるために宗教の必要性を痛感している心ある人がふえているといわれています。
  現代では信仰を持つことが恥ずかしいどころか、むしろ人生を深く考え、より向上しようという心ある行為といえるのです。「周囲の奇異な目」といっても、周囲の人々はそれほど深い意味で批判しているわけでなく、あなたの思いすごしの部分が多いのではないでしょうか。
  日蓮大聖人は、
 「百千合はせたる薬も口にのまざれば病も愈えず。蔵に宝を持てども開く事を知らずしてかつへ、懐に薬を持ても飲まん事を知らずして死するが如し」(一念三千法門・新編一一〇)
と仰せられ、せっかくの薬も宝も用いなければなんの役にも立たないように、正しい信仰をしなければ真の幸福は築かれないと教えられています。
  他人の目を気にして至上の宝である正法の信仰を持たず無為に過ごすことは、あなたの人生にとって最大の損失になるのです。
  入信当初は、一時心ない人から奇異な目で見られることがあるかもしれませんが、「真実の宗教を信仰して幸せな境涯(きょうがい)を築くのだ」という、強い自覚と信念と誇りをもって信仰に励むならば、周囲の人もやがてはあなたを見直して尊敬の眼差しを向けるようになるでしょう。
  大聖人は、
  「されば持(たも)たるゝ法だに第一ならば、持つ人随って第一なるべし」(持妙法華問答抄・新編二九八)  
と、最高の教えを持つ人は、また最高にすばらしい人だと仰せられています。
  どうか、取り越し苦労や弱気をふり払い、勇気をもって真実の門に入り、正々堂々と人生の大道を歩んで下さい。


3 特定の宗教への入信は人間関係をむずかしくするのではないか

  「特定の宗教」とは日蓮正宗を指していると思われます。ひとことで言えば、日蓮正宗に入信することが原因になって人間関係を損ねるということはまったくありません。
  もし特定の宗教に入信することが人間関係に支障をきたすというならば、宗教に限らず“特定の学校”に入ったら旧友と仲たがいするのでしょうか。“特定の会社”に入ったら友情にひびが入り、“特定の政党”を支持したら親子の断絶が生ずるとでもいうのでしょうか。
  国籍が定まっている人は、“特定の国家”の一員であり、住所が定まっている人は“特定の地域”の住民です。このように国籍や職場・学校、あるいは政党に限らず、私たちは多くの“特定の”社会や集団・組織の一員として生きているのではありませんか。もし国籍も住所も不定であり、所属する職場や学校も定まらず、これといった信念も持っていないならば、その人はまったく信用されないでしょう。
  これが宗教となると、特定の信仰を持つことがいけないような錯覚にとらわれるのはなぜなのでしょう。欧米の人々は自分がひとつの信仰を持つことに大きな誇りを感じ、堂々と自分が信じている宗派を披瀝(ひれき)します。ですから信仰を持っていない人間を心に深みとゆとりのない無教養の人として軽蔑するのです。「特定の宗教……」といって、ひとつの信念を持つことを忌みきらうような言い方をするあなたは、たとえば「私には心から尊敬している人がいます」というより、「私は誰をも尊敬しません」と答える方が、格好がよくて人間関係を損ねない利口な方法だと思いますか。
  あなたが心配している「人間関係」とは、
  (1)特定の宗教をもつと考え方や意見が食い違ってきらわれるのではないか
  (2)信仰活動によって“つき合い”の時間がなくなるのではないか
  (3)周囲から色メガネで見られたり、異端者としてのレッテルを貼られるのではないか
などの点であろうと思われます。しかし正しい仏法に帰依(きえ)して真実の人生を歩もうとすれば、周囲に一時的な変化があるかもしれませんが、いずれ信仰者の姿や言動を通 じて周囲も理解を深め、以前にもましてよりよい人間関係が築かれることを確信すべきです。
  実際にあった話ですが、非行グループに入っていた少年がひとつのきっかけで母親の願いを容れて正法を信仰するようになったところ、いつしか悪友たちが遠ざかり、良い友達がふえてその少年は立派に更生した、ということです。
  この少年に対して、あなたは「少年が信仰をしたために悪友との人間関係を損ねたことはよくない」とは言わないでしょう。
  もし周囲に宗教に無知な人がいるならば、こと宗教に関する意見や考え方にくい違いがあるのは当然ですし、その時は誠意をもって正しい仏法を持つことがどういうことかを教えてあげればよいのです。
  日蓮正宗を信仰する人は、信仰によって培われた生命力と快活な人間性を発揮して、正常な人間関係を積極的に作る人々です。現在世界の正宗信徒は信仰以外の分野においても、おのおのの社会、職場そして個々のつながりを大切にして、日夜向上を計って努力しているのです。


4 日蓮正宗に入信すると結婚や就職がしにくくなるのではないか

  人それぞれに好みが違うように、宗教についてよく認識していない人の中には、日蓮正宗をこころよく思わない人もいるでしょう。 まして日蓮正宗は正邪のけじめをはっきりさせる教えであり、自らの信仰に励むだけではなく他の人に布教する宗教ですから、時には誤解をする人もいるようです。
  しかしこのような人でも、よく聞いてみると、正宗の教義そのものや信仰すること自体をきらっているのではなく、信仰活動にかこつけて家庭を省みなくなったり、職場での仕事がおろそかになる、遅刻欠勤が多くなる、布教によって人間関係が損われる、などの点に対して心よく思わないようです。
  日蓮大聖人は、
  「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」(檀越某御返事・新編一二二〇)
と仰せられ、法華経を持つ者は社会人としての勤めに対しても真剣に取り組まなければならないと戒められています。
  この言葉どおり全国・全世界の正宗信徒は立派な社会人・家庭人として襟度をもって日夜努力しています。しかしもし正宗信徒を名乗りながら、信仰にかこつけて社会的に信用を落したり、世間から顰蹙を買うような者がいたならば、実に残念なことといわなければなりません。またこのようなごく一部の姿をもって、正宗を正当に評価できない人も実に不幸なことというべきです。
  広い世間のことですから、ごくまれな例としては、それぞれの家風や会社の方針として正宗の信仰を嫌うところもあるかもしれません。また反対に正宗の信仰者を優先的に歓迎するところもあるでしょう。だからといって、そのつど、信仰をしたり、しなかったりすることは愚かなことですし、信仰の意義がわからない証拠でもあります。
  正しい信仰とは人生の羅針盤のようなものです。もし船に羅針盤がなければ安全な航行はできませんし、目的地に着くこともできません。
  もしあなたが現在結婚や就職という人生の岐路に立っているならば、もっとも大切なことは目先の結婚や就職はゴールではなく、スタートであるという心構えをもつことです。もし希望どおりの結婚や就職ができたとしても、そのあとの長い家庭生活や社会生活の中で、必ず起こるさまざまな問題や困難な壁を雄々しく克服し、着実に幸福に向かって前進するためにはその根本に正しい信仰がなければならないのです。
  見栄や体裁ばかりを気遣い、信仰をすると周囲からどんな眼で見られるかと神経質になるよりも、自分の人生になにがもっとも大切かを考えるべきです。そして正しい信仰によって、厳しい苦難に負けない強い生命力と、賢明にして明朗な人格を養うことが真の幸福に到達する道であることを考えるべきでありましょう。


5 信仰を持つことによって、仕事がおろそかになるのではないか

  あなたが心配される点には、次の二つのことが考えられます。
  まず第一は、信仰のために時間が奪われ、そのしわ寄せによって仕事がおろそかになるのではないか、ということと、もう一つは、信仰することによって、努力をしなくても棚ぼた式に幸運にめぐまれるものと信じて、仕事をおろそかにするのではないか、ということでしょう。
  しかし日蓮正宗の信仰においては、こうした心配はまったく無用です。なぜなら日蓮大聖人の教えは、信仰だけしていれば、仕事をおろそかにしてもよいというような偏狭なものではないからです。
  私たちが仕事に励む目的は、自身の生活をより豊かにして、精神的にも物質的にも安定した幸せを得ようとするところにあるといえましょう。しかしそこに築かれた幸せは、恒久的なものとはいえません。なぜなら、たとえ仕事が成功して、経済的に裕福になったとしても、それは表面 的な一時の結果であり、前世の善因にもとづく果報ですから、その果報が尽きれば、その福徳もつきるからです。
  したがってその幸せを恒久的なものにするために、正しい信心が必要なのです。正しい信仰による果 報は、今生の幸せはもとより、未来世への福徳を無限に積んで、永久に崩れない幸福となるのです。
  大聖人の仏法に「世法即仏法(せほうそくぶっぽう)」という原理があります。これを広く社会全体の立場から見れば、「社会即仏法」ということになりましょうし、個人の立場から見るならば「信心即生活」ということになります。
  この原理は、仏法が私たちの現実の生活を離れてあるのではなく、むしろ生活そのもののなかにあるということを示したものなのです。
  大聖人は、
  「まことのみちは世間の事法にて候。(中略)やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候」(白米一俵御書・新編一五四五)
と仰せです。これは、現実社会のあらゆる現象と仏法は一体であり、私たちの生活のなかに仏法の真理があらわされていることを教えられているのです。
  現実の社会は、「政治」や「経済」によって動いているといっても、それを動かす主体は人間にほかなりません。
  ゆえに大聖人は、妙法を受持し、純真に信仰を貫く人は、社会のあらゆる現象の実相を見極めていけることを、
  「天晴れぬれば地明らかなり、法華を識る者は世法を得べきか」(観心本尊抄・新編六六二) と教えられています。
  「法華を識る」とは、正しい信仰によって、生命の永遠と、諸法の実相を見極める智慧を備えることであり、「世法を得べきか」とは、その智慧をもって仕事に励み、ひいては社会に対しても存分にその力を顕現し、充分に生かしきってゆくことができるという意味です。
  ゆえに信仰と生活(仕事)の関係は、信仰は大地のようなものであり、生活はその大地に生える草木ともいえます。
  大地が肥沃であればあるほど、草木が大きく生長するように、正し信仰を持つことによって、りっぱな見識と、洞察力を備えることができるのです。
  こうした原理を踏まえた信仰をするのですから、時間はより有効に使われ、仕事もいっそう充実していくのです。
  信仰を持つことによって、仕事がおろそかになるようなことは、絶対ありえないことを知ってもらいたいと思います。


6 信仰をするといろいろな制約があって遊べなくなるのではないか

  宗教のなかには戒律を定めて、教義的な制約をしているものが少なくありません。特にキリスト教やイスラム教・ヒンズー教などは、結婚や食物さらに医療に関することまで、細かく制約されています。仏教でも小乗仏教といわれるものには二百五十戒・五百戒などの戒律が定められています。
  しかし人間の煩悩は八万四千ともいわれており、これらのすべてを戒律によって規制することは不可能なことです。
  日蓮大聖人は、
  「されば三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成り給ひしなり。三世の諸仏の出世の本懐(ほんがい)、一切衆生皆成仏道(かいじょうぶつどう)の妙法と云ふは是なり」(法華初心成仏抄・新編一三二一)
と仰せられ、戒律や智慧によって成仏するのではなく、根本の一法である南無妙法蓮華経を信じ唱えることによって成仏すると教えられています。
  したがって日蓮正宗の信仰には、教義的な制約や戒律などはまったくありません。ただし、人間を不幸に陥れる邪宗教を信ずることや謗法に与同することは固く禁じています。
  次に信仰活動による時間的な制約については、大きくいえば人間は誰でも一日を二十四時間という枠の中に制約されて生活しているわけですし、ひとつの社会や組織に属すれば、それなりの規則があり、時間や行動の面 で制約があるのは当然のことです。まして正しい人生を歩み将来にわたってくずれることのない幸福を築くための仏道修行、すなわち信心活動には相応の努力と時間が必要です。日蓮正宗の信仰をする場合、少なくとも御本尊への朝夕のお給仕(仏壇の清掃・お水や樒などを供える)と読経唱題の勤行をしなければなりません。そして大聖人が、
  「月々日々につより給へ」(聖人御難事・新編一三九七)
と教えられているように、幸福の源である信心を清浄に持続するのみならず、さらに行学を錬磨してゆかなければなりません。そのためには家庭での勤行唱題とともに、寺院への参詣、学習会や座談会への参加などによって信心の向上を計る必要があります。 これは、なんの修行も必要としない宗教に比べると、面倒なことのように思われるかもしれませんが、現実的に考えると、自ら読経唱題し、行学を錬磨するからこそ、その人に本当の信仰心がはぐくまれるわけですし、信心と行学の修行をともなうからこそ生きた真実の宗教であるといえるのです。
  だからといって仕事や家庭が犠牲になるというわけではありません。その人その人の生活のリズムに合わせて持続することが大切です。ここで大切なことは、“規則や教義によって自分は制約されて窮屈だ”と受けとめるか、あるいは“規則を守り教えによってこそ自分は正しく向上できるのだ”と受けとめるかということです。このちがいは物事に対していかに積極的にとりくむかという姿勢と心によって生ずるものといえましょう。
  正しい信仰は豊かな人間性と力強い生命力、そして深い智慧を培うものでありますから、日蓮正宗を信仰する人はおのずと仕事や家庭に対しても適確な判断と積極的な姿勢を持つようになり、信仰活動も歓喜の心をもって実践できるようになるのです。
  「信仰をすると遊べなくなるからいやだ」という人は、「学校ではテレビやマンガを自由にみせてくれないから行きたくない」と駄 駄をこねている子供と同じ理屈です。
  信仰をしている人でも、趣味を楽しみ、レジャーを楽しむことは一般人となんら変わりません。ある人は「いままで自分が職場と家庭のことで窮窮としていたのは、自分の生命力が衰えていたためであったと、信心をはじめてから気付いた」と言います。
  またある人は「遊びや道楽も、信仰をするようになってから自然に不健康な堕落させるものから、健康的な人生を向上させるものに変わった」と言い、ある人は「いままでは憂さばらしのために遊びに逃避していたが、信心によって仕事に希望が生まれ、家庭が円満になった今は、充実した気分で本当の意味の余暇を楽しむようになった」とも言っています。このような体験は日蓮正宗の信者が一様に味わっている一例にすぎません。
  どうかあなたも日蓮正宗の信仰によって悠悠たる境界を築き、職場と家庭とそして余暇を楽しみ生かす人生を送ってください。


7 信仰は個人的にするものだから、組織に入らなくともよいのではないか

  人間は誰でもきゅうくつな思いをしたり、束縛されることを好みません。できることなら毎日の生活を、他人から干渉されず、気がねすることなく、好き勝手に過ごしてみたいと思うでしょう。言い換えれば、誰でも組織的な集団にくみ込まれて種々の制約を受けることをきらうのです。
  組織は共通の目的をもった複数の人間、または機能によって構成されています。
  無人島で一人で生きなければならなかったロビンソン・クルーソーの例を出すまでもなく、私たちは社会から離れてひとりで生きていくことはきわめて困難なことです。
  人間社会はお互いによりよい生活を享受することを目的にして、それぞれの立場で能力に応じた役割を分担し、社会に寄与することによって営まれているのです。
  大きくいえば、社会全体が総合的な機構を持った組織体であり、この社会を国という単位 で見れば、よりいっそう組織的な意味が強くなるといえましょう。
  この人間社会あるいは国家の組織を守り、かつ円滑に運営するために、規則や法律が存在します。
  これがさらにきめ細い共同目的をもった組織体として、学校や会社、組合などがあります。その組織に属する人は、それぞれの役割をもち、目的のために力を尽すとともに、その組織によって身を守り、生活の向上を計るなどの恩恵を受けるわけです。
  このように私たちは生きている限り幾種類もの大小さまざまな組織の構成員となっているのです。
  同じ組織といっても、その目的に応じて、その機構も、制約も、参加の形態も、そして恩恵も大いに異ります。たとえば現在自分の職業に直接関係する組織と、小学校時代の同窓会の組織では、私たち個人を規制する度合いも当然違ってきます。
  私たちは自分の人生に大きな影響を与えるものであればあるほど、方向を誤ることなく、より実効をもたらすために組織が必要なのです。
  もし、ある学校で、生徒が登校するのも欠席するのも自由であり、校規校則もなく、成績にかかわらず全員を卒業させたら、ほんとうの学力を養うことができるでしょうか。それこそこのような学校や生徒はいいかげんなものだという評価しか下されないでしょう。このことは信仰の道についても同様です。個人的な気休め程度の宗教やはっきりした目標のない教えならば、自分勝手でよいかもしれませんが、人間としての最高の境涯である成仏を遂げるには組織の必要性を認識しなくてはなりません。仏教では人間を正道に導き向上させる働きを善知識といいます。
  伝教大師は、仏道修行を志す者の善知識として、一に教授の善知識、二に同行の善知識、三に外護の善知識の三種を挙げています。教授の善知識とは深遠な仏法を教え導いてくれる師範や先輩を指します。第二の同行の善知識とはたがいに励まし、助け合いながら信仰する同僚や友人であり、第三の外護の善知識とは有形無形に私たちの信仰を助け、協力してくれる人たちのことです。
  これらの善知識があってはじめて私たちは正しく信仰の道を歩むことができます。またこの善知識の働きをより効果 的に発揮するために作られたものが信仰上の組織なのです。したがって真の幸福を築くためには、善知識である信仰組織のなかで、人間性と信仰を磨き、培わなければならないのです。
  心が弱く、自己本位の人は人間関係を忌みきらって組織から遠ざかろうとするでしょうが、真剣に自己の向上と鍛錬を願う人は、人間関係や組織を修行の場として有効に生かすべきです。


8 手を合わせて拝むことは恥ずかしい

  手を合わせて拝むことが恥ずかしいというその心の底には、信仰は年寄りくさいとか、弱い人間が行うものなどの宗教に対する偏見があるのではないでしょうか。いずれにしても“恥ずかしい”ということは、世間の目が気になる、周囲の人たちから変な目で見られないかという懸念があるからでしょう。しかし、自分でよいと思えば、たとえ変った服装で街を歩いたとしても、別 に恥ずかしいなどとは思わないものです。人間にとって最高の幸福をもたらす正しい信仰には必ず合掌がともないます。ですから合掌が恥ずかしいというのは、医者から薬をもらっても、人に見られたら恥ずかしいといって薬を飲まずに病気を悪化させるようなものです。
  病気を治そうと思えば、つまらない見栄を捨て薬を服するのが当然でしょう。それと同じように、日蓮正宗が自分の人生にとってもっとも大切であり、絶対に正しいと確信するならば、合掌が恥かしいなどとは感じなくなるはずです。
  合掌は荘厳な仏前で、もっとも尊い御本尊に向かって清浄な心で行うものであり、その十指は十界互具を意味し、胸にあてるところは、我が胸中の心性の白蓮華を生じ、そして南無妙法蓮華経と唱えるところは無作三身・事行の一念三千の当体であるという深い意義を備えているのです。
  このことを日蓮大聖人は、
  「合掌とは法華経の異名なり。向仏とは法華経に値ひ奉るを云ふなり」(御義口伝・新編一七三四) と仰せられ、真実の合掌は最高の教えである妙法蓮華経に帰依する姿であると説かれています。
  ですから人間として真に幸福を願うならば、自分の小さな感情にとらわれず、また、つまらない世間の目を気にせず、真実最高の日蓮大聖人の仏法に目を開き、正直な心で手を合わせ、御本尊を拝むべきです。
  人間にとって恥ずかしい行為というのは、人の道を踏みはずしたり、法を犯したり、他人に迷惑をかける行為をいうのです。
  宗教に対する知識を深め、自己の幸福はもちろんのこと、社会に平和をもたらす崇高な教えを正しく信仰するということは、恥かしいどころか、人間としてもっとも誇るべき行為なのです。


9 仏教の法話は現実離れしたおとぎ話ではないか

  私たちは自分の幸不幸を目先の現実によって評価しがちですが、真実の幸福とは自己の生命に内在する仏の生命の涌現によって、現実の人生や生活の中にその力を発揮させることです。
  そのためには、仏が悟られた真実の教法に帰依し、仏の御意に叶った信心修行に邁進しなければなりません。
  しかし私たちにとって、仏が長い間修行されて悟られた法の内容や功徳力はもちろんのこと、人間生命の実体や成仏の境界などは、あまりにも深遠すぎてとうてい理解できるものではありません。
  だからといって、仏法は難解だからかかわりたくないと遠ざかるならば真の幸福も安心立命の人生も築くことはできません。ここに仏の化導のための手段が必要になるのです。
  釈尊は、
  「吾成仏してより已来、種々の因縁、種々の譬喩(ひゆ)をもって廣く言教を演べ、無数の方便をもって衆生を引導して」(方便品第二・開結八九)
と説いています。すなわち仏は自ら悟った甚深の法を、人々に説くに当って、さまざまな因縁(原因・助縁)、あるいは譬喩(たとえ)を説き、さらには多くの方便(手段)を用いて導くというのです。
  天台大師も、仏が譬喩を説くことについて、
  「樹を動かして風を訓え、扇を挙げて月を喩す」(御義口伝・新編一七三三)
と記しています。この意味は、風そのものを見ることはできないが、樹が揺ぐことによってその存在を知ることができ、天の月に気付かない人には、身近な扇を高くかざすことによって天月を気付かせることができるということです。これと同じように仏も衆生に対して、身近な言葉を用い、因縁や譬えなどさまざまな手段をもって正法を説き明かされているのです。
  あなたがもし、仏典の因縁や譬喩の部分だけをとり挙げて、「現実離れだ」「子供だましのお伽話だ」と非難するならば、それは仏の真意を知らない浅薄な言動といえましょう。
  仏典を開き、法話を聞くときは、表面の言葉だけにとらわれることなく、それによって示される仏の真意に留意し、耳を傾けるべきです。


10 宗教の世界は、科学的根拠や証明があいまいではないか

  「科学的」とはいったいなんでしょう。ふつう科学とは、物事や現象について、その性質・変化・他との関係などを実験を通 して、体系化し、応用を考える学問のことです。
  この科学の基本となる道理が因果律です。すなわち一定の物事(因)が一定の条件と作用(縁)によって、一定の結果 を生ずること、たとえば酸素と水素を一定条件のもとで化合すれば、誰がいつどこで行っても、かならず水を生ずるようなものです。この普遍的な因果 律が「科学的」という言葉の意味だと思います。
  さてこの原則をもって現在の多様化した宗団・宗派を見ると、質問のような“あいまい”な、しかも一見してインチキとわかるような宗教がたくさんあります。なかには教祖が発狂状態になったことを、神が宿ったと称して支離滅裂な言葉を神のお告げとして崇めるものや、祭壇に供えた水は霊験があるといって病状を無視して多量 の水を飲ませるもの、あるいは煙に触れるだけで無病息災になると説く宗教など、道理にかなった教義がまったくない宗教や迷信としかいいようのない宗教も数多くあります。
  このようないかがわしい宗教を別として、文証・理証・現証に照らして正当な宗教についていえば、我々がある事実(宗教)を科学的な眼をもって研究することは大切なことですが、現在の科学的知識で計れないからという理由で、現実の事象を否定したり、“非科学的”と決めつけることは、それこそ“非科学的”な態度というべきでしょう。
  近代の科学は物質文明の中で発達し、多大の貢献をしてきましたが、精神文明ことに人間の心に関してはまったく手つかずの状態です。
  にもかかわらず、仏が人間生命の本質と法界の真理を深く観達して説かれた仏法を、人智の集積ともいうべき現代の科学をもって証明しようというのは無理な話です。
  それはあたかも、尺とり虫が自分の歩幅と歩数で、空を飛ぶ鳥の飛距離を計ろうとしているのに似ています。
  もしどうしても、日蓮大聖人の仏法を道理と現証という科学的説明によって論証せよというのならば、釈尊の予証のとおり現実の濁世(じょくせ)に出現された日蓮大聖人が、予証どおり大難に遭いながら一切衆生を成仏せしめんと大慈悲をもって、大御本尊を図顕建立(ずけんこんりゅう)された事実、そしてそれを信ずる多くの人々が大聖人のお言葉どおり、歓喜と希望に満ちた人生を歩んでいるという実証こそ、“科学的”現実そのものではありませんか。
  将来、科学が仏法をどこまで証明できるかわかりませんが、人間を生命の根本から蘇生させ、豊かな生命力を涌現させる仏法が、七百年間富士大石寺に厳然と伝えられ、未来永劫(みらいえいごう)にわたって全世界の民衆を救済得道せんと威光(いこう)をもって照らされている事実を知るべきでしょう。


11 宗教は教団の金もうけにすぎないのではないか

  ご指摘のとおり昨今の宗教界の乱脈ぶりは目を覆うばかりです。ほとんどの教団は、民衆救済と社会平和の実現という宗教本来の使命を忘れ、本尊や書籍、守り札、祈祷などを売りものにして、金儲けに専念している現状です。
  ひどい教団になると、教義がらみで信者にお金を出すよう強制します。たとえば目を患っている人に対して、「目の玉 は丸いでしょう。目の因縁を切るために、丸いもの(お金)を供えなさい」、また足の悪い人には「足は“おあし”(お金)に通 じるから、お金を上げればよくなります」などとまったく人をばかにした“ごろ合せ”や“こじつけ”で無知な人を騙しています。もっと悪質なものになると、「欲心があなたを不幸にしているのだから、欲心を棄てなさい。そのためにはあなたの財産を神さまに捧げることです」などと言葉巧みに、全財産を教団にまき上げられた例もあります。
  こんな宗教は明らかに金儲けを目的としたものですから、近づかないほうが無難です。
  では、宗教団体が資金を持つことは悪いことなのかというと、それも誤った考えです。教義を研鑽し、修行し、布教するためには、それを賄う資金がなければなりません。
  仏典には、菩薩の修行として貧者に物を与える布施行が説かれておりますし、衆生が仏や法に対して、報恩の念をもって金品を供養することを、積功累徳(しゃっくるいとく)の行いであると賞賛しています。供養とは自分にとって大切な宝を仏様に捧げることであり、これには蔵の財・身の財・心の財の三種がありますが、大聖人は、
  「蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり」(崇峻天皇御書・新編一一七三) と仰せられ、信心という心の財を根本にすることを教えています。
  「日蓮正宗の信心はまったくお金がかからないのか」という声を聞きますが、常識的に考えても、信仰するためには数珠や経本、仏具、書籍などの費用は必要です。また御本尊に対する自発的な供養や先祖回向の塔婆供養なども、信仰者として当然なされるべきでしょう。
  しかし、日蓮正宗では本山はじめ各地の末寺でも、賽銭箱などはいっさいありませんし、他宗徒からの供養は仏の本意に叶わないとして、まったく受け取らないのです。また葬儀、法事などにおいても、“お経料”とか“戒名料”もありませんし、他宗のように供養の額を定めて請求することなどもありません。
  日蓮正宗はひたすら正法を純粋に守り、弘教し、真の幸福と世界平和の確立を目指して実践している唯一の宗団なのです。


12 自分の宗派だけを正しいと主張することは「エゴ」ではないか

  「エゴ」とは「エゴイズム」の略語で、利己主義という意味です。どの宗派もそれぞれ自宗の教えこそ正当であり、利益があると主張します。たとえば念仏宗では捨閉閣抛(しゃへいかくほう)といって他経を捨てよ閉じよと教えますし、禅宗では教外別 伝(きょうげべつでん)といって釈尊の正意は文字で表されるものではなく、以心伝心で自宗のみに伝えられてると主張します。
  宗教の歴史を見ても、キリスト教やイスラム教はいまだに異教徒との闘争にあけくれています。これらのすべては自らの優越性を誇示するところに端を発しています。このように見ると宗教の世界は「エゴ」の集まりと考えられるのも当然でしょう。だからといって自己の正当性を主張することが悪いということではありません。
  たしかに、周囲を無視し、道理や現証を無視していたずらに自己の優越性のみを主張することは独断であり、悪しきエゴの宗教というべきです。したがって、真実に人間を救う教えであるか否かを合理的に検討し、その上で、“悪しきエゴ”の宗教か、正しい宗教かを決定すればよいわけです。少なくとも表面 のみを見て、“宗教はすべてエゴだ”と速断して宗教全体を否定することは、決して賢明な態度ではありません。
  難解な宗教教義を判定するひとつの規準として、原因があって結果が生じるというあたりまえの因果 律に立脚しているかどうかということがあります。たとえばキリスト教では人間の起源は神が土の塵から造り出したものだといいますが、その神は誰によって作られたかという点は説いておりません。神道でも日本の国は神によって作られたと説きますが、天上の神の起源については何の説明もありません。仏教においてはじめて“三世にわたる因果 律”を根本とする人間生命の真実相が説き示されたのです。人間が帰命依止する宗教が不完全なまま民衆に信仰と尊崇を呼びかけることこそ“悪しきエゴ”というべきです。
  仏教のなかにおいても、釈尊が当時の人々に対して、低い教えから高い教え、浅いものから深いものへと、次第に説き示しながら機根(衆生の性格と心)を調養し、最後にもっとも完全で功徳力のある法華経を出世の本懐(目的)として説き顕わしたのです。
  これを釈尊自身も法華経のなかで、
  「私が今まで説いてきた経典は数え切れないほどである。過去に既に説いたもの(已説)、今説いたもの(今説)、将来説くであろうもの(当説)、それらの中でこの法華経がもっとも深い教えである」(法師品第十・開結三二五取意)
と、法華経がもっとも勝れたものであることを主張しています。
  日蓮正宗では、正法によって衆生救済を願われた日蓮大聖人の精神を受けつぎ、普遍的な宗教批判の原理に照らして、正を正とし、邪を邪なりと主張しているのです。


13 世界平和を説く宗教が他の宗教を攻撃して争うことは自語相違ではないか

  平和といえばその反対が戦争であることは誰にでもすぐ思い浮かぶでしょう。
  戦争とはいうまでもなく国と国が武力をもって争うことです。これを縮小した形が人と人の争いです。人どうしが争う原因を考えてみますと、まず自分の利益や欲望(エゴ)のみを充たそうするときに起きます。これを仏法では貪欲(とんよく)といいます。次に感情的な忿怒による場合があります。これを瞋恚(しんに)といいます。また相手をよく理解しなかったり、考えが浅いために争いとなることもあります。これを愚癡(ぐち)といいます。その外に高慢心や猜疑心が争いのもとになることもあります。
  国家間の戦争も個人と同じように人間が本来生命に具有している貪瞋痴(とんじんち)の三毒、あるいは慢疑を加えた五悪心の作用に起因します。しかも仏法の上から現代という時代をみると、今は末法といって、劫濁(時代・社会そのものの乱れ)、煩悩濁(苦しみの原因となる貪瞋痴などの迷い)、衆生濁(人間の心身両面 にわたる汚れ)、見濁(思想の狂いや迷乱)、命濁(生命自体の濁りや・短命)の五濁が強大となって、いたるところで争乱や殺りくが絶えまなく行われる時(闘諍堅固)と予言されています。
  たしかに人命軽視や刹那的欲望による犯罪、そして自己中心の風潮は現代社会の病巣として深刻な問題となっています。これらの社会問題が貪瞋痴の三毒という単に理性のみで解決できない生命の奥深い迷いから起っているわけですから表面 的な道徳教育や、倫理の訓話などで解決できるほど単純なものではありません。現に人殺しはいけない、暴力はいけない、親不孝はいけないと誰でも知っています。それでもなおかつこれらを犯してしまう事実は、もはや知識や教育の次元を越えて、人間生命の奥底から揺り動かす真実にして力のある仏法によらねばならないことを物語っています。国家間にあっても、一時的に争いが止み、戦火が鎮まっているといっても、それのみをもって真実の平和とはいえません。なぜならばおたがいに三毒強盛の人間が動かしている国政、軍事であれば、いつまた火を吹き、殺し合うかもしれないからです。
  質問のように戦争と破邪顕正(はじゃけんしょう)の折伏とを同一視して自語相違だといわれるのは、戦争を表面 の争いという点だけを見て、その原因の三毒を知らないために生じたものでありましょう。真実の平和を確立するためには三毒強盛の人間性と五濁の世相を正し、仏法によって浄化し、一切衆生悉有仏性(誰人も仏になる可能性をもった尊い存在ということ)自利利他(自分も他人もともに幸せになること)の精神を共通 の根本理念にしなければなりません。そのためには宗教の正邪・高低・真偽を厳格に区別 し、選択しなければなりません。
  私たちの布教は決して争いを起こそうとしているのではなく、誤った宗教はあなたの人生を不幸にしますよと教えているのです。また折伏とは相手の人間を攻撃するのではなく、あくまでも邪悪な宗教や低級な思想を平和を破壊するものとして指摘し論破するものなのです。あなたの質問は、たとえば世界平和を実現するための会議で各国代表が部分部分で意見の食い違いがあったといって、それのみをとり上げて、自語相違だ無益だと非難しているようなものです。
  本来の折伏は民衆救済と世界平和という大目的のための破邪顕正であることを知るべきです。


14 南無妙法蓮華経と唱えるなら、どれも同じではないか

  「南無妙法蓮華経」を表面的に解釈すれば妙法蓮華経すなわち法華経に帰依(南無)するという意味です。
  日蓮正宗以外の日蓮宗各派では、本仏といえば釈尊であり、究極の経典は釈尊の法華経であると立てておりますから、南無妙法蓮華経の意味も、「釈尊が説いた法華経二十八品の経典に帰依する」ということになります。
  しかし日蓮大聖人は、
  「今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(三大秘法禀承事・新編一五九四)
と仰せられ、大聖人が建長五年四月二十八日に唱え出された南無妙法蓮華経は、いまだ誰も唱えなかったものであると説かれています。
  さらに大聖人は、
  「仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(経王殿御返事・新編六八五) とも、
  「彼は脱、此は種なり。彼は一品二半(いっぽんにはん)、此は但題目の五字なり」(観心本尊抄・新編六五六)
とも仰せられるように、この南無妙法蓮華経は釈尊の法華経とは異ったものであると示されています。
  では南無妙法蓮華経のほんとうの意味はなにかというと、
  「無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり」(御義口伝・新編一七六五)
と説かれています。すなわち無作三身(宇宙法界を我身・我体として悟られた根本の仏)とは法華経の行者のことであり、その仏名を南無妙法蓮華経と称するのであるというのです。ここでいう法華経の行者とは日蓮大聖人にほかなりません。これについて、さらに、
  「本尊とは法華経の行者の一身(いっしん)の当体なり」(御義口伝・新編一七七三)
と仰せられており、法華経の行者の当体こそ一切衆生を済度する本門の本尊であると示されています。
  したがって南無妙法蓮華経とは本門の本尊のことであり、法華経の行者日蓮大聖人の当体なのです。  大聖人は、
  「本尊とは勝れたるを用ふべし」(本尊問答抄・新編一二七五)
と私たちに本尊の大切さを教えられています。
  いかにお題目がありがたいといっても、日蓮宗各派のように、釈尊像を拝んだり、竜神や大黒天あるいは稲荷に向かったり、さらには霊友会や立正佼成会のように死者の戒名に向かって題目を唱えることは、本尊と題目がまったくちぐはぐなものとなり、大聖人の教えに背く悪業を作ることになります。
  人でも自分と違った名前をいくら呼ばれても返事をしないどころか、かえって非礼にあたると同じ理屈です。
  せっかく日蓮大聖人を崇め、南無妙法蓮華経の題目を唱えるのですから、大聖人の御真意に叶った正しい御本尊に向って唱題すべきです。


15 日蓮聖人の史跡をめぐり参拝をしているから充分だ

  日蓮大聖人は、
  「日蓮を用ひぬるともあしくうやまはヾ国亡ぶべし」(種々御振舞御書・新編一〇六六)
と仰せられています。
  この言葉の意味は、日蓮を尊敬し崇めても、正しく敬まわなければ国が亡ぶ、というのです。
  一家が悪(あ)しく敬まえば、一家が亡び、個人が正しく敬まわなければ個人が亡ぶという道理です。
  では日蓮大聖人を正しく敬うとはどういうことでしょうか。
  御書には、
  「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」(開目抄・新編五七七)とも、
  「今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも、南無計(ばか)りにてやあらんずらん。ふびんふびん」(撰時抄・新編八六七)
とも記され、自ら末法の一切衆生の主師親(しゅししん)であり人々が日蓮大聖人に帰依し、「南無日蓮大聖人」と礼拝すべきことを説かれています。
  そして、
  「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御義口伝・新編一七七三)
とも、
  「此の曼茶羅(まんだら)能く能く信じさせ給ふべし。(中略)日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(経王殿御返事・六八五)
とも仰せられ、末法の教主日蓮大聖人の当体・魂魄のすべてを書き留められた曼荼羅御本尊を信じ拝するよう教えられています。
  曼荼羅のなかでも、弘安二年十月十二日に図顕された一閻浮提総与の大曼荼羅が根本中の根本たる本門戒壇の御本尊なのです。
  また大聖人は、
  「檀戒等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを、一念信解(いちねんしんげ)初随喜の気分と為すなり。是則ち此の経の本意なり」(四信五品抄・新編一一一三)
と仰せられているように、末法の仏道修行は布施や戒律などの修行を捨てて、ひたすら本門戒壇の大御本尊に向かって唱題することなのです。これが大聖人を正しく敬うということであり、本意に叶う信心なのです。そのためには、本門戒壇の大御本尊と日蓮大聖人の精神を正しく清浄に伝えている日蓮正宗の信徒として、信心しなければならないのです。
  次に史跡についていえば大聖人の本意に叶う正しい信仰を実践したうえで、ゆかりの地を尋ね往時をしのぶことは悪いことではありません。
  しかしここで注意すべきことは、まず現在、大聖人の史跡として宣伝されているもののなかで、鎌倉時代からのそのまま保存されている建物はほとんどありません。また場所も長い時間の経過の中で地震や津波などによって地形が変化したり、史跡がわからなくなったものがほとんどです。そしてなによりも大切なことは、史跡の真偽を別 として、そこにある寺院が大聖人の精神を正しく受け継ぐ日蓮正宗の寺院なのか、それとも大聖人の精神に反した邪宗寺院なのかということです。
  もしあなたが史跡めぐりだといって大聖人の精神から外れた日蓮宗の寺院に詣でるならば、それこそ大聖人を「悪しく敬う」謗法を犯すことになるのです。