>国内の動静(一覧表示) >関連項目 >御書解説


大白法・平成16年5月1日刊(第644号より転載)御書解説(119)背景と大意

華果成就御書

(御書 1225頁)

一、御述作の由来

 本抄は、旧師・道善房(どうぜんぼう)が死去してから二年後の弘安元(一二七八)年四月、大聖人様が身延より安房国東条(あわのくにとうじょう)郷(現在の千葉県)の清澄寺(せいちょうじ)浄顕房(じょうけんぼう)義浄房(ぎじょうぼう)に与えられた御消息です。御真蹟は現存していません。
 本抄を著された弘安元年は道善房の三回忌に当たることから、大聖人様は旧師の三回忌を(いとな)まれ、(ねんご)ろなる御回向(ごえこう)をされて、その際、浄顕房と義浄房に()てて本抄を(したた)められたものと拝せます。
 浄顕房と義浄房は清澄寺の住僧で、大聖人様が就学(しゅうがく)中の法兄(ほうけい)に当たります。大聖人様が清澄寺での立教開宗の後、地頭の東条景信(かげのぶ)に迫害された時、共に大聖人様をお(まも)り申し上げ、後に大聖人様の門下に連なっています。
 なお、本抄の、
    いね()は華果成就すれども、必ず米の精大地にをさ()まる。故にひつ()ぢお(苗生)ひいでて二度華果成就するなり」
との部分が題号の由来(ゆらい)となっています。

二、本抄の大意

 まず、建治二(一二七六)年に、旧師・道善房のために『報恩抄』上下二巻を認めて送ってさし上げたのを、浄顕房・義浄房の二人が(かさ)が森で奉読されたことをお喜びになられます。
 次いで、草木は大地がなければ生長することができないが、たとえば大聖人様は草木のようであり、道善房は草木を育む大地のようなものであるとして、大聖人様が法華経の行者となって、善悪につけて日蓮房と呼ばれるようになったのは、道善房のおかげであると仰せになられています。
 そして、法華経『従地涌出品(じゅうじゆじゅつぽん)』で出現された地涌の菩薩について、末法の世に上行菩薩が出られるならば安立行(あんりゅうぎょう)菩薩も出現されるはずであるとして、大聖人様を上行菩薩、道善房を安立行菩薩に配されて仰せになられます。
 続いて、稲は花を咲かせ実(米)を成らせても、米の精は必ず大地に還る故に、稲を一度()り取った後に芽が出て再び花や実を結ぶことから、大聖人様が南無妙法蓮華経を(ひろ)める功徳は、必ず道善房の身に帰るであろうことを心から喜ばれています。
 さらに、善い弟子をもてば師弟は共に成仏をし、悪い弟子を養えば師弟共に地獄に()ちると仰せられて、師匠(ししょう)と弟子の心が違えば何事も成就することはできないと(いまし)められます。
 最後に、浄顕房・義浄房の二人に対して、常に法華経の法門を語り合い、同心に霊山浄土(りょうぜんじょうど)を期すことを勧められると共に、法華経『五百弟子受記品(ごひゃくでしじゅきほん)』の文を引かれ、いかなる立場であろうとも自己の使命を自覚し、法華経を信仰していくことを教えられ、さらに激励されて本抄を結ばれています。

三、拝読のポイント

師匠への報恩

 第一には、仏法を行ずる上に師恩を報じていくことが大切であるということです。
 生前中、大聖人様から法華経への信仰を勧められた道善房は、心中では大聖人様に帰伏(きぶく)しながらも念仏信仰を()つことができないために、阿弥陀仏を五体作ったことに対して、五度無間地獄(むけんじごく)に堕ちると厳しく弾呵(だんか)されていますが、その旧師への恩については、終生変わらぬ感謝の念を披瀝(ひれき)されています。
 その師弟の関係を地涌の菩薩に当てて、
    「末法には上行出世し給はゞ、安立行菩薩も出現せさせ給ふべきか」
と、大聖人様を上行菩薩に、道善房を安立行菩薩に()して、その師徳を(たた)えられています。
 これは『御義口伝』に、四大菩薩の徳を地水火風の四大に擬するなかに、安立行菩薩を地大に擬して、
    「大地は草木を長ずるを以て行とする」(御書 1764頁)
と仰せになられていることによるものと拝せられます。故に本抄において、
    「日蓮は草木の如く、師匠は大地の如し」
と仰せになり、道善房を大地に、大聖人様を草木に例えられ、道善房が大聖人様を世に送り出す大地のごとき(はたら)きをされたと仰せられているのです。
 ここにおいて、大聖人様が上行菩薩として出世されたと述べられたことに深い意義が拝せられます。というのも、大聖人様の外用(げゆう)の御姿が上行菩薩の再誕と示されたことは、御法門の上から、その内証(ないしょう)久遠(くおん)元初(がんじょ)自受用(じじゅゆう)報身如来(ほうしんにょらい)の再誕ということであり、このことは末法の御本仏であることを、自ら明確に示されたものと拝することができるのです。
 道善房は念仏信仰を捨て切れずに一生を終えていますが、末法の御本仏たる大聖人様と師弟の縁を結ばれたという宿縁(しゅくえん)深厚(じんこう)であり、その功徳によって、未来において必ず仏道を成ずることは間違いないのであり、そのことは本抄の、
    ひつ()ぢお(苗生)ひいでて二度華果成就するなり」
の御文に明らかと言えましょう。
 故に、宗祖大聖人様以来の血脈(けちみゃく)を御所持あそばされる御歴代上人を成仏得道の師匠と拝して信心修行させていただく私たちは、御法主上人猊下の御指南を深く身に体し、日々の勤行・唱題・折伏の実践をゆるがせにすることなく、また総本山への御登山や毎月第二日曜日に所属寺院において奉修される御報恩御講等への参詣を心がけ、下種三宝尊への報恩謝徳の祈りを(ささ)げていくことが大切です。そして、このことを心得て信心修行に励んでいくことが師恩を報じていくことになるのです。

師弟相対(していそうたい)の信心

 第二には、師弟相対の信心が大切であるということです。師弟相対とは、師匠が無量の慈悲をもって弟子に仏法を教え、弟子は師匠に対して絶対の信をもって帰依(きえ)し、随従(ずいじゅう)することをいいます。
 大聖人様は本抄に、
    「師弟相違せばなに事も成すべからず」
と仰せになられ、成仏のためには師弟相対の信心に徹することが大切であることを示されています。
 大聖人様は『最蓮房御返事』に、師といっても、第六天(だいろくてん)魔王(まおう)退(しりぞ)け法華経は真実と正直に読む「正師」「善師」と、第六天の魔王に見入られ法華経を誹謗(ひぼう)する「邪師」「悪師」があると示されます。これは邪悪の師に縁すればその影響を受けて自らの命も邪悪なものとなっていくことから、信順(しんじゅん)規範(きはん)とする師が「正善」の師か「邪悪」の師かを峻別(しゅんべつ)することが大事であることを示されているのです。
 私たちは正善の師たる大聖人様に(つか)えることが法華経修行の要諦(ようてい)ですが、大聖人様の滅後(めつご)においては、大聖人様の甚深の仏法を唯授一人(ゆいじゅいちにん)の血脈相承(そうじょう)をもってお受けあそばされた第二祖日興上人以来の御歴代上人を仏法の本師と仰いで仏道修行に励むことにより、末法の衆生は下種三宝尊(げしゅさんぽうそん)冥合(みょうごう)して成仏が叶えられるのです。
 私たち法華講員は、この基本に(のっと)り、御法主上人猊下の任命により各末寺に派遣された御住職を血脈法水(ほっすい)への手続(てつぎ)の師匠として和合一致し、信行に励んでいくことが大切です。本宗の信仰は己の智解(ちげ)によって成仏するのではなく、師弟相対の信の一字によって成仏が()げられることを心得ていきましょう。

信心を貫き折伏を実践

 第三には、環境や立場にとらわれずに信心を貫くことが大切であるということです。
 大聖人様は本抄の末文に『五百弟子受記品』の文を引用されています。これは富楼那(ふるな)が衆生救済のために、外面では声聞(しょうもん)の姿を現じつつも、内面には菩薩の行を秘していることを示されると共に、さらには貪瞋癡(とんじんち)三毒(さんどく)を有して邪見(じゃけん)の相さえ現じて衆生済度に当たることが説かれたものです。
 この経文を通して大聖人様は、浄顕房・義浄房の二人に対し、いまだ清澄寺の中に身を置く状況の中で、いかなる立場にあろうとも二人が結束し、地涌の使命を持って信心を貫き、仏道を成就していくべきことを教えられ、激励されています。
 このことは、私たちが邪宗謗法の家に生まれ、三毒強盛(ごうじょう)の身として生を受けたのは、大聖人様の仏法に縁して、大聖人様の弟子檀那の一分として衆生を教化するためであることを教えられているのと同時に、日常生活にあっても、様々な困難に立ち向かう勇気がなくてはならないことを説かれているものと拝することができます。
 私たち法華講員は、とりまく環境や立場にとらわれずに信心を正しく受持し、折伏弘教の実践を行ってまいりましょう。

四、結 び

 本抄に、
    「根ふかきときんば枝葉かれず、源に水あれば流れかはかず」
と仰せのように、信心の根をしっかりと張り、功徳の枝葉を茂らせ、信心の功徳がいつまでも(うるお)うようにその源を枯らすことのないよう(つと)めていくことが大切です。
 そのためには、本門戒壇の大御本尊様に絶対なる確信を持ち、血脈付法の御法主日顕上人猊下の御指南に随順して唱題を重ね、正法弘通に邁進することが大切です。
 本年も求道(ぐどう)の志を高めて日々に信行学に(いそ)しみ、破邪顕正の駒を進めてまいろうではありませんか。


目次へ戻る