一、御述作の由来本抄は、文永十(一二七三)年五月二十八日、大聖人様が五十二歳の御時、佐渡において認められ、清澄寺住僧の義浄房へ送られた書状です。義浄房は、安房(現在の千葉県)清澄寺住職であった道善房の弟子で、大聖人様の兄弟子に当たる僧侶でした。十二歳で清澄寺に上がられた大聖人様にとって、兄弟子の浄顕房と義浄房の二人は、初歩的なことから教育を施す直接の師匠のような存在だったのです。 また大聖人様は、
(御書 1031頁) 本抄の冒頭には、
二、本抄の大意まず、法華経の功徳について述べられます。法華経を修行することによって得るところの功徳は、唯仏与仏の境界、すなわち釈尊と多宝如来のみが知る境界であり、十方分身の諸仏といえども領解できないものであると教示されています。さらに、その法華経の修行には様々な姿があり、天台大師、妙楽大師、伝教大師等のみが知る法門であると仰せです。それは天台・妙楽・伝教という方々だけが、法華経の所詮である十界互貝・百界千如・一念三千の法門を正しく知る立場だからなのです。 次に、『寿量品』の法門は、大聖人様にとって依拠となる法門であり、天台や伝教もほぼ知りながら言葉に出して述べることができない法門であるとお示しです。つまり、大聖人様のお立場におかれての一念三千の法門があることを表示されているのです。 続いて、大聖人様のお立場におかれての一念三千とは何かをお示しです。「自我偈」の、
(法華経 四三九頁) 次いで、「一心欲見仏 不自惜身命」の文を釈され、「一心欲見仏」の本義は妙法蓮華経であり、「不自惜身命」とは妙法蓮華経の五字を弘通することを説示した文であると述べられます。そしてこの文を、身をもって行じられている大聖人様こそ、無作三身の仏果を成就した本仏であることを教示されています。 最後に、自らの心を師とせず、法華経のためには身を捨て命をも惜しまず精進するよう指南し、本抄を結ばれています。 三、拝読のポイント一つ目は、法華経の功徳についてです。功徳の功とは修行のことで、修行をして自ら功を積んでいく善因を言います。そして、その修行によって勝れた果報というものが命の中に自然に具わっていくのであり、それが功徳の徳ということです。 大聖人様は本抄に、
入信していても勤行・唱題をしない、折伏をしないということでは功徳はありません。それは、功徳の功とは修行であるからです。修行をせずに勝れた果報は得られないのです。反対に、勤行・唱題・折伏の修行によって功を積むならば、結果として必ず勝れた徳を得て幸福になっていけるのです。これが信心の道理なのです。 私たちは、日々の生活の中で様々な問題に直面し、悩み苦しむことがあります。そのようなときこそ、御本尊様の不可思議な功徳を信じて唱題に唱題を重ねることが大切なのです。なぜならば、その確信ある唱題によってこそ、いかなる問題も乗り越えることができるからです。 大聖人と『寿量品』の因縁 二つ日は、大聖人様と『寿量品』との因縁です。 本抄の、
本抄を認められた一ヵ月ほど前に、法本尊開顕の書と言われる『観心本尊抄』を著され、法体の付嘱と法体の内容について詳述されています。したがって本抄では、その意義の上から法体の付嘱について簡潔に述べられたものと拝されます。すなわち、法体たる久遠元初の法を所持されているのは、大聖人様御自身であることを本抄において説示されたものと拝されます。 大聖人の己心の仏果 三つ目は、大聖人様の己心の仏果についてです。 本抄では、「一心欲見仏 不自惜身命」の文を挙げ、この文によって己心の仏果を顕されたと教示されています。 また、大聖人様はその所以を、
三大秘法が末法万年の御化導の上において成就されたのは、弘安二(一二七九)年の本門戒壇の大御本尊様の御図顕にあります。このことからすれば、本抄における三大秘法の成就という教示は矛盾するかのように拝されます。 では、本抄における「三大秘法の成就」とはどのように拝すべきでしょうか。これは竜の口法難を機に、大聖人様が凡夫の御姿において久遠元初の御本仏の御命を悟られ、その御境界をもって佐渡の国に渡られたことを意味しているのです。
四、結 び大聖人様は本抄の結びに、
御法主上人猊下は、次なる大目標として平成二十一年『立正安国論』正義顕揚七百五十年の大佳節に地涌の友の倍増乃至それ以上の輩出と大結集を御指南あそばされました。ならば、この御指南を我が心として何としても成就していくことが師弟相対の信心です。それぞれの支部が一丸となり、次なる大目標の成就に向けて、いよいよ精進してまいろうではありませんか。 |
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