一、御述作の背景本抄は、建治二年(一二七六)三月三十日、大聖人様が五十五歳の時、身延の地より富木常忍に対して与えられた御抄です。御真筆は中山の法華経寺にあります。対 告 衆富木殿は、下総国葛飾郡八幡荘若宮に住み、幕府の有力御家人、千葉氏に仕えていた武士と伝えられています。正式には、因幡国富城荘の領主であったことから、富城五郎常忍(つねのぶ)と称していましたが、「富木」とも「土木」とも称し、名も入道して「常忍」(じょうにん)と改称し、更にその後には、「日常」と名乗っていたことが『富士一跡門徒存知事』等から知ることができます。 大聖人様は『富城殿女房尼御前御書』に、
また、自邸の法華堂を中心に弘教に励み、弘安元年(一二七八)には、当時天台宗の寺であった真間の弘法寺を改宗させました。さらにまた、門下を代表して大聖人様より『観心本尊抄』や『四信五品抄』などの重要な御書の数々を賜り、それを後世にまで厳護するよう命じられたのです。 背 景建治二年二月下旬に、富木殿の母が九十歳という長寿を全うされ死去されました。富木殿は、その菩提を弔うため翌三月に、下総(現在の千葉県市川市)から、大聖人様のおられる身延の山に、その遺骨を奉持して登山し、大聖人様にその追善供養をお願いしました。 富木殿は、正安元年(一二九九)三月二十日に八十四歳で亡くなっていますから、この時は六十一歳でした。 大聖人様の御尊顔を拝し、懇ろに母の供養をしていただいた富木殿は、たちまちに心の苦しみが止み、歓びが身に余って、心に緩みが生じたのか、帰りに大切な持経を忘れてしまったのです。そのために大聖人様は、直ちに当抄を御執筆なされ、お弟子に持たせて遣わしたのです。 二、本抄の大意はじめに、大聖人様は古今内外の有名な物忘れの例を挙げ、
すなわち、三千塵点劫・五百塵点劫の輩は、過去の下種を忘れたがために貧苦に堕したこと、今の邪宗教の人たちは仏の本意を忘失しているが故に、必ず未来に地獄に堕ちることを示され、さらに『法華経』をもととする天台宗の人々が、『法華経』の説の如くに折伏弘教する日蓮を誹謗し、逆に『法華経』の敵である念仏者等を助けるような姿は、一番物忘れの激しい人たちであって、師敵対の大謗法であり、自殺行為であると示されています。 次に富木殿が、国中が飢饉で苦しみ、盗賊等が充満しているなかを、母への孝養心から、山川幽谷に阻まれた千里の道程をも のともせず、遺骨を奉持して大聖人様のもとへ足を運び、その菩提を弔った姿は、過去の聖人・賢人等が身命をなげうって仏道修行した功徳に勝るとも劣らない、最高の仏事であり、往古の聖賢を彷彿とさせるものがあり、親子同時の成仏を説かれた『法華経』を身をもって示されたものと誉め称えられています。 三、拝読のポイントまず第一に、富木殿に忘れ物を届けるにあたって、それに関する様々なエピソードを紹介し、富木殿を「日本第一の好く忘るゝ仁か」という、大変ユーモアあふれる書き出しで始まっているところに、大聖人様と富木殿の間柄を知ることができます。また、富木殿もこの書をご覧になって、思わぬ失態に恥じ入られながらも、大聖人様の温かい心に接し、益々信心に励まれたことでしょう。私たちも、このように相手の心を思いやりながら、心の交流を図っていくことが大切です。次に、私たちが信仰の上で絶対に忘れてはならない下種ということについて述べられていす。すなわち、
末法の今日における下種の教主とは、大聖人様でありますから、大聖人様を主師親三徳有縁の御本仏様と拝してその教えにしたがい、純粋に仏道修行に励むことが時に適った信心であり、これよりほかに私たちが成仏する道はないのです。 次に、元来その本地が等覚・妙覚に位し、本已有善の衆生の修行の在り方を示された常啼菩薩や善財童子、あるいは雪山童子等の振る舞いは、私たち凡夫には到底真似のできるものではありません。しかし、末法の今日、これら聖賢の修行に勝るとも劣らない成仏への修行の在り方を、富木殿の信心を通して御教示されています。すなわち、大聖人様への純粋無垢な信仰です。たとえ見思未断の荒凡 夫であっても、また善悪をわきまえない愚痴の者であったとしても、信心によって成仏できるのです。また、そうした心を引き起こしてくれるのが、父母等の肉親への愛情・惜別の思いでもあるのです。こうした身近な人の死や、さまざまな悩み苦しみが信仰の道に入る大きなきっかけとなってくることは、現在でも、私たちの身の回りに多く見受けられます。 次に、富木殿の日常生活の一端を示された御文があります。
次に、当時の登山の様子や世相を知ることができます。
続いて、大聖人様は親への孝養として、
四、結 びこの御書では、富木殿が大切な持経を忘れられたことから、「忘れてはならないもの」ということが一つのテーマになっています。私たちも、一番大切な大聖人様との約束を忘れることがないよう常に気を引き締め、折伏・再折伏に邁進することが肝要です。「依法不依人」の御金言と、「よき師・よき法・よき檀那」の三つが揃ってはじめて願いが叶うという御金言を忘れることなく、御法主上人猊下の御指南のもと、異体同心・僧俗和合して、来る平成十四年の宗旨建立七百五十年をめざし、一生懸命に精進してまいりましょう。 |
目次へ戻る |